GIFT (4)


細い清流にかかる小さな橋を越えるとすぐに見えてくる小さな赤い屋根の家が、軍がユージェニー・バルトに与えたささやかな住居だった。
だが家屋の小ささに比べ、地表を舐めるように萌える数々のハーブが植えられた庭は不釣合いなほど広大で、一面に咲いたレースラベンダーの一部に
覆いかぶさりながら伸びた大株のルッコラに鈴なりに咲いた白い小花や、目に黒く見えるほどに生い茂った濃い緑の葉を掻き分けて咲くオレンジ色のナ
スタチウムの花などが、気を抜けば重く沈みそうになるロイの心を慰めてくれた。
歩くたびに軍靴にたわむれてくるレースラベンダーの細い茎を踏まぬように注意を払いながら、ロイはゆったりとした足取りで人の手が長らく入っていな
い庭をまっすぐに進んで行く。

――――ユージェニー……

芳しい花の香りを乗せた風に黒髪を弄らせながら、ロイは小さな声で短い詩のように美しい女の名前を呟いてみた。
ロイよりも十歳近く年嵩だった彼女はしかし、その内面を色濃く映し出したかと思われるどこか浮世離れした美貌で多くの人目を惹いた。
錬金術師の常として、あまり陽に当たらない生活を続けていた結果が招いた幸運なのか、透明感のある白い肌はしみひとつ無く、俗世に塗れぬ唇は、
先ほどロイを感嘆させたアーモンドの花の色に似た薄桃色をいつも刷いていた。
セントラルに住居を構えていた頃の彼女は『不精をして伸ばしっぱなしにしている』と語っていた波打つ栗色の髪を無造作に束ねていたが、イシュヴァー
ル前線に従軍することが決まるとすぐに、イシュヴァラの神が民に試練を与えたと伝わる厳しいかの地の気候に合わせて、その豊かな髪を短く切りそろ
えた。
露わになった真珠色のうなじ。
水面を見下ろす水鳥のそれに似たすんなりと伸びたユージェニーの首は、密やかにではあったが前線に集まる兵士達の賞賛の的となった。
そして彼女が持っていた天与の美は彼らの心を慰め、彼女が得とくした錬金術は彼らが負った傷を癒した。

そんな女が人知れず、人里はなれた寂しい場所でひっそりと息を引き取ろうとしている。
その事実が今、ロイの胸の中にほの暗い陰を落としていた。


「ユージェニー、ロイ・マスタングだ。入らせてもらうよ」
質素な木製の扉をノックしたあとに、ロイはその内側で横たわっているであろう女の耳に届くように、大きな声を掛けた。
「ユージェニー…?」
予想通り返事は聞こえてはこなかったが、最初から鍵が備わっていない扉は小さな取っ手を軽く引くだけで、いとも簡単にロイを家の中へと招き入れた。
元国家錬金術師たちの住む村は、皮肉なことに常時軍の監視下に置かれている為に、アメストリスのどこよりも治安に恵まれていた。
そしてここにはプライベートなど露ほども無く、住人の全てが守るものをとうに手放している状態だった。
だから鍵などあるだけ無駄なのだ――――
侵入者を拒むことなく開け放たれた戸口、そこに向かってロイは迷うことなく足を踏み入れた。




――――本当に彼は…帰ってくるのだろうか?
山頂を駆け抜けていくまだ冷たい春の風が吹くたびに、レッドウッドの葉群は孤独な旋律をハボックの頭上で奏でた。
多くの秘密を隠し持ったこの丘陵地において、高く伸びた希少な大木と同じく、自分はまったくの部外者でしかないのだと、ハボックはその恵まれた逞し
い体躯とはうらはらに、そこに隠し持った心情は言いようの無い疎外感に苛まれていた。

憤りを抑えつけながら見送った、上官の背中。
ハボックが現在立っている場所より僅かばかり高い場所にある集落に向かう彼の背は、いつもと変わらずまっすぐ伸びて美しく、後方で見送る自分の目
に涼やかに映っていた。
だんだんと小さくなっていくロイの頭上に見えたものは、朧雲が横たわる薄水色の空ばかり。そして人ひとり通るのがやっとという細い坂道をロイと従者
が登りきってすぐに、ハボックの視界からふたりの姿が消えた。
まるで空に溶けてまったのではないかと疑ってしまうくらい、鮮やかに。
そして不可解なことにロイの姿を見失った途端に、今まで抑え込んでいた憤りがハボックの中で爆発した。
奪われた――――彼を。
なぜそう思うのかそんなことは当のハボック自身にも判りはしなかったが、ロイを招きよせた地図に載らないその村は、いつの間にかハボックの意識の
中で曖昧な姿の魑魅魍魎が取り付いた異界へと変貌し、自分の命に換えても守ると誓った人を目の前で呑み込んでしまったのだ。
(大佐…っ!)
我知らず叫びだしそうになる。いっそのこと命令に背いて彼らの後を追おうかとも考えたが、ロイ達と別れてからというもの、ハボックは自分の首筋や背
中に執拗にまとわりつく視線を感じ続けていた。
そしてその視線の持ち主が、自分が心に思い描いたことをそのまま行動すれば次に何を仕掛けてくるか、それもハボックはうすうす感づいていた。
(見張られている…)
自分の目を撹乱するために、あらゆるルートを走行した軍用ジープ。
そしてその道すがら見かけた、異常と思えるほどの歩哨の数。
改めてそれを思い出し、ハボックは無意識のうちに大きく喉を鳴らしながら唾液を飲み下す。

軍の思惑が張り巡らされた異界は、招かれざる者を受け入れることは無い。
決して自分が足を踏み入れることが出来ない辺境の村で、今頃ロイは何をしているのだろうか。
うねる荒い波のようにハボックの胸中で早鐘が鳴る。
杞憂に終わるかもしれないハボックの不安をあざ笑うように、その頭上で再びレッドウッドの葉群が鳴った。


(2006.05.15 つづく)


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