GIFT (5)


ロイが踏み入った小さな家の中には、二年前の記憶と同じく自然光がやさしく満ちていた。
手狭に感じるほどに小さいダイニングキッチンの真ん中に置かれたテーブルの上には、誰が摘んだのか匂いスミレの花束がクリスタルの花瓶に生けら
れ、透明な陰を木製の天板に落としていた。
光を採り入れるための窓はキッチンの狭さにくらべてあまりに大きく、白日の光と引き換えに訪れる夜の闇を想像するだけで気が滅入りそうになる。
レッドウッドの力強い幹から離れてこの村に入ってからというもの、なぜかネガティブな方向に引かれてしまいがちになる弱い自分の心を嘲笑うように、ロ
イは片方の口角を引き上げてから、慎ましやかに俯いている匂いスミレを手にとった。
「ユージェニー、ロイ・マスタングだ。約束どおり訪ねてきたよ」
華奢な花の茎を指でくるくると回しながら、ロイはキッチン横の閉ざされたドアに歩み寄った。
「ユージェニー…?」
甘い女の名前を繰り返し呼びながら扉をノックして、耳を澄ます。
「入っても?」
微かだが扉の向こうに人の気配を感じる。病人ゆえの緩慢な動作を思い描き、ロイは二度目のノックを急くことなく、忍耐強く扉の向こうからの返事を待
った。
『……って、ロイ』
程なくして聞こえてきたか細い声。耳に突き刺さるその痛々しい女の声に、ロイは無意識に唇を噛む。
『ロイ…あなた、こちらへ…来て』
僅かな隙間から這い出してくる小さな声が、足元から徐々にロイの身体を這い登り、絡め取り、そして動けなくさせた。
急激に襲い掛かったそれは、呪縛と言うよりも間違いなく恐怖と言った方が正しい。数え切れない死を見つめてきた自分でも、やはり近しかった者の揺
れる命のともしびを真っ向から見据えることが未だに恐ろしいのだという事実に可笑しさを隠し切れず、ロイは小さな笑い声をたてた。


「失礼するよ、ユージェニー」
細い声に導かれて入った部屋には、鼻を突く薬品の匂いが充満していた。
その匂いに少しだけ顔をしかめ、ロイは後ろ手に扉を閉める。後に続く者は居ない。
いまわの際にある病人のたっての願いだから同席することを控えるように命じると、山岳将校はあっさりとロイの言い分を飲み、ひとりでこの部屋に入る
ことを了承した。
彼から見れば、ユージェニーも自分も叩けば『イシュヴァール』という埃が出る身に変わりなく、二人きりの密談に少しばかりよからぬ事柄が紛れ込んで
いたとしても、それが世間に漏れるとは決して無いとタカを括っているのかも知れなかった。
「ロイ、久しぶり…ね」
初めて見るユージェニーの寝室兼書斎は、思ったよりも広かった。
壁に沿って置かれたベッドの他に、クラシカルなライティングビューローとローチェスト、そして天井まで届く大きな本棚がある。
濃い茶色に統一されたそれらの家具を置いてもまだスペースに余裕のある部屋を見回して、ロイは安堵のため息をついた。
「いい部屋だね、ユージェニー。お招きに預かったこと、光栄に思うよ」
この部屋には確かに彼女の意志が篭っていた。
開かれたままのライティングビューローの上に置かれたものは、墨壷と羽ペン、幾冊かの専門書と一冊のノート。
塵ひとつ積もっていないそれらをロイは愛情の篭った目で見つめた。
「お茶の一杯も煎れてあげられなくて…ごめんなさいね」
思うように動けないことを詫びるように、白い布団が微かに動いた。
「気を使わなくてもいい。それよりも何か伝えたいことがあったから私をここに呼んだのだろう?」
純白の寝床から起き上がれなくなるまで、この村で錬金術の研究を続けた彼女は、この村で錬金術師として死んで行く。同族に対する愛しさと同時に、
錬金術の戒めから逃れられなかった彼女に対しての哀れみがロイの胸の中に急激に湧き上がる。
「ええ、そうだった…わね。じゃあ…こっちに来て、私の傍に」
「判った。すぐにそちらに行くよ」
ユージェニーに乞われるままに、ロイはライティングビューローの前に置かれた椅子を引いて、彼女が横たわるベッドの傍に移動した。
ベッドに近づくにつれ薬品臭は酷くなっていく。白木の箱が置かれた小さなナイトテーブルの横に椅子を置き、そこに座る前にせめてもの慰みにと、ロイ
は手にした匂いスミレの可憐な花束をユージェニーの枕元に置いた。
「まあ…匂いすみれね。あなたが…?」
「いや。ダイニングテーブルの上に飾っていたものを拝借してきたんだ」
「そう。きっとミランが摘んできてくれたのね。あの人は本当に良く―――っぐ…っ!」
枯れ枝のような五本の指が、咳き込む口元を抑える。
傍に寄ってみれば嫌でも判る、変異とも呼べる彼女のやつれ方とふるえる指。それを目の当たりにして、ロイは自分が予想していた通り、ユージェニー
自らが『死』を望み今に至るのだと確信した。
「ホラ、水を!」
しかし、いくら自分が望んだからといって発作に苦しむ彼女を放っておくことも出来ず、ロイはベッドヘッドの上に置かれていた水差しを片手に持ち、身悶
えるやせ衰えた身体を少しでも楽な体勢になるように背後から抱きかかえようとして立ち上がった
そして、その瞬間。
「ロ…イ…っ……ゴフッ…!」
咄嗟の行動にロイの片足がナイトテーブルに当たり、その上に乗せられていた白木の箱が大きく揺れた。
小さなナイトテーブルの上に置くには少しばかり大きすぎるその箱に対する違和感。それは一目見たときからロイの中に微かなわだかまりとなっていた
のだが、音を立てながらナイトテーブルの上を滑るその箱に気付いた途端、激しく咳き込みながらそれでも必死に手を伸ばしてもがくユージェニーの鬼気
迫る姿に、今度は背筋が凍りつく番だった。
「お願い…っ、ロイ―――」

―――彼を受け止めて。

そう聞こえたのは単なる聞き違いだったのだろうか。
だがそれが聞き違いであったにしろ、ベッドから起き上がることさえ困難に思えた痩せたユージェニーの腕が必死に守ろうとしているものが、その白木の
箱であることに変わりは無かった。
「危ないっ!」
あらん限りの力を振り絞り、上体を起こした女の身体がぐらりと傾ぐ。ユージェニーの必死の哀願よりも、崩れる彼女の身体を支えることを選んだロイの
頭の片隅に、黒い意識が瞬時に芽生えた。

落ちてしまえ。
そしてそのまま、粉々に砕けてしまえばいい。

中身さえまだ知らされていないその箱を恐れるあまり、ロイは心の内側で呪詛を吐く。
しかし弱々しく揺れるその心を鼻先であざ笑うように、白木の箱は寸でのところで落下することを免れた。
「はぁ……っ―――」
箱の無事を見届けた女の冷たい身体は今度こそロイの腕の中で崩れ落ち、それと同時に深いため息が彼女のひび割れた唇から零れ落ちる。
力の抜けた軽い身体を再びベッドの上に丁寧に横たわらせながら、ロイは彼女の耳元に小さな声で問いかけた。
「どうして…ユージェニー?」

全てを捨てたはずの彼女が垣間見せた、激しい恋慕にも似た執着。
そして狂おしいほどの執着を胸に抱きながら、死に急ぐその理由。

何もかもがロイの想像の範疇を超え、子供のようにただ問いかけることしか出来ない。
「どうしてあなたは死を選んだのだ?」
頬にキスを落とす仕草で、再び横たわる女にロイは問いかける。
その問いに対する答えの換わりに、彼女はふるりと睫毛を揺らしてからゆっくりと瞼を開け、ロイの背後にひっそりと控えている白い箱に向かって静かな
笑顔を投げかけた。


(2006.05.28 つづく)


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