バンドネオンの夜(3)(137 ダンス)


身体のラインを浮き上がらせるイブニングドレスは、すべてを曝け出した裸体よりも、男の欲望を効率よく誘い出す。
白鳥の首に例えられても決して引けを取ることの無い、すんなりとした細い首と、鎖骨のくぼみが深い影を落とす美しいデコルテを飾るものは、
細いストラップのみという素っ気無さだったが、いずれも甲乙つけがたい美女ふたりによるダンスシーンは、
主人公によって黒く塗りこめられたスクリーンの色彩を、いい意味で覆い隠していた。
黒い髪の肉感的な美女は主人公に盲目的な愛を捧げる婚約者であり、対する金髪の神秘的な美女は主人公が心惹かれた教授の妻だった。
タイプの違う女ふたりの間をふしだらに行ったり来たり――――それは恋愛においては不実でしかない行為だったが、
その反面、ヘテロセクシャルという一般概念からは、決して爪弾きにされることはなかった。

「恋人が居てもイイ女見れば目移りしちゃう気持ちは判るような気がしますが…」
「私もそれには同意するよ」

哀しくなるほど明快に自分の意見に頷いたロイの瞳を、逃げられない角度からすかさずハボックは覗き込んだ。

「即答、ありがとうございます。でもね、アンタ、早すぎですよ。最後まで聞いてください」

いつの間にか一曲目の演奏は終わり、SP盤は針飛びの音を引き連れて、二曲目の演奏に入っていた。
先の一曲と違って、今度の曲ははマイナーコード進行の暗鬱な楽曲で、そこにバンドネオンの音がむせび泣くように絡みついている。

「それは以前の話ですよ。今は目移りしてたら置いてけぼりくらっちまう人に夢中です」

誰かを泣かしたとしても、目の前の人に置き去りにされるよりはマシだと思う。
だから、酷薄に周囲を振り切ってでも、着いていくから。

「たまには素直に、俺の手を取ってください、大佐」


面白いほど直球勝負で押してくる男だと、こんな関係になる前から思っていた。
自分に向けて差し伸べられた、ハボックの長い腕と開かれた大きな掌を目にして、我知らず鼓動が乱れる。
幅広い音域が出せるはずのバンドネオンは、今はひっそりとすすり泣く声に似て低い場所を這い、高鳴る一方の心臓の音を隠すことを期待するには
あまりにも心許なかった。
もし、あの映画の主人公が、この男の真っ直ぐな強さで、幼い頃に男に犯された過去を振り切っていれば――――。
それが到底無理なことだとしても、まず最初に自身の心を裏切ることを覚え、過去に怯え続けながら生きてきた主人公の傍に、
この青い目の男に似た存在が居たならば、きっと別のストーリーが続いていたに違いない。

「出した手に喰いついて無茶をしなければ、その願いをたまには聞いてやってもいいぞ」

ジャン・ハボックと言う男が、自分の手の中に在る幸運にひっそりとほくそ笑みながら、ロイは目の前の男の手に自分の手を重ね置いた。

はたから見れば、きっと滑稽な光景なのだろう。
幾分細身ではあるものの、ハボックの大きな手が支えているのは男である上司の腰だ。
それだけでも充分誰もが目を剥くに違いないシーンだというのに、ハボックはコンチネンタルタンゴのリズムから大きく外れながら、
おぼつかない足取りでパートナーであるロイ・マスタングをリードしようと奮闘していた。
そんなハボックの腕の中で、面白いように振り回されている状態のロイも、いつものようにパートナーをフォローする立場には無く、
男同士のダンスはただロイの失笑だけを残して、瞬く間にその形態を完全に崩壊させていた。

「ハボック…悪いが、これは最早ダンスではないな」
「そう思うんなら、少しぐらいフォローする努力を見せてください!」

軽く見上げれば目に入る、額に汗が滲んだ男の必死の形相は、そう悪いものではない。
だが、ロイの記憶の中から今も消えることのない、女同士のダンスシーンの妖しさからは現在の状況はあまりにも遠すぎる。
ここには絡み合う白い蛇のようなたおやかな腕は無く、密着するたびに押しつぶされる豊かな乳房もありはしない。
そして何よりも、暗鬱なストーリーの中に咲いた異形の徒花の風情は、ロイを腕の中に囲い込んだ男に重なることが無かった。
夜だというのに。
部屋の中だというのに。
この男の肌からは、いつも冬の光に似た控えめな日向の香りがする。
普段は強烈な煙草の匂いに覆われて、気づかれることのない小さな陽だまりは、こうして体温を感じる距離まで近づけば、
簡単に探し出すことが出来る。
―――もしもこれが、今の私に残されている最後の光であるのなら…それだって、悪くはない。
まだ、あくなき挑戦を続けようと悪あがきする男の襟足に、ロイは空いた片方の手を廻す。
そして、僅かに伸びた金色の猫っ毛のさわり心地を暫く堪能したあとに、ロイは力任せにハボックの首裏を、自らの方へと引き寄せた。


(2005.05.03 つづく)


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