バンドネオンの夜(2)(137 ダンス)


最初から高みを駆け抜けたバイオリンの音色を追って、切れの良いバンドネオンの音が四拍子を刻む。
たたみ掛けるようなスタッカートのリズムは、ダンス音楽になくてはならない華やかさを備えていたが、その音を聞く者が真に惹かれるのは、
大輪の花びらが今まさに開こうとする表の顔ではなく、うねる音の海原に身を投げる激しさでひた走る
刹那の情念が鎖のように連なった暗い熱情だった。
音階だけを追えば、跳ねるような明るさを持っているはずのこの曲には、目まぐるしく動くバンドネオン奏者の指によって、
悲哀という彩が添えられていた。

「不思議な音色ですね」

暫くの間、聴きなれないタンゴのメロディに黙って耳を傾けていたハボックが、ポツリと短い感想を洩らす。

「バンドネオンの音のことか?」
「そんな名の楽器なんですか。バイオリンとピアノくらいなら判るんですけど」

鼻の付け根を掻きながら、衒うことなく告白するハボックに、ロイの唇が僅かに緩む。
「私の知識もおまえと似たり寄ったりだ。特にこの手のダンス音楽はよく判らん」
「そうなんですか?でも、大佐は公務上パーティーなんかでダンスを踊ることもあるんでしょ?」
「上官の奥方たちや、令嬢相手にタンゴは踊らんよ。ワルツの簡単なボックスを踏むので精一杯だ」
「以外っすね。まぁ、プライベートは別なんでしょうけど?」

何かと言えば、ハボックはロイの女性関係を引き合いに出してくる。
けれど、それは自分が知らない過去の出来事さえ許さないと責めている訳ではなく、それ込みでロイを愛しているのだと暗に伝えているのだ。
天然を装いながら、その実とんでもなく食えない男。

「だが、そうだな…。ひとつだけあるぞ、タンゴに関する思い出が」
「へぇ、どんな?」

この手のアピールにロイが応えることは稀だったが、今日は何かを吐き出してしまいたい気分だった。


「かなり昔の話になるが、当時懇意にしていた女性と活動写真を見に行ったことがあってな」
今でこそトーキー全盛の映画界だったが、数年前までは殆どの映画館では無声映画が上映されていた。
モノクロスクリーンの下方を白く抜いたセリフと、話術巧みな講釈師が演出のひとつとなっていた当時の映画館では、一等大がかりな演出として、
映画音楽をフルオーケストラで演奏することも珍しくなかったのだ。

「政治的な色合いが濃い、デートには不釣合いの映画だったが、映像がとても美しかった」

まだ過去を懐かしむ年齢には達してはいないはずなのに、ロイはどこか遠くを見つめるような瞳で、ハボックの知らない場所を振り返る。
そう言えば、最近では年齢に関係なく、今のロイと同じような、遣る瀬無い瞳をする者が多くなったように思う。
大きすぎる何物かを越えて見つめなければ、思い出すことも困難な古き良き時代――――いや、過去というべきか。

「そして、それ以上に美しかったのが、出演していた女優陣だった」
「あっそーですか。つかアンタ、それが狙いでその映画を選んだんでしょ?」
「当たり前だ。女優はスクリーンの華、それを愉しまずして何を愉しめというのだ?」
「そりゃそうですけどね、相手の女性に対して悪いとか思わんのですか?」
「それはまた別の問題だ。それにこの私が、そんな下心を相手に悟られるようなエスコートの仕方をする訳が無かろう」

ほんの一瞬だけ垣間見た、切なさに満ちた瞳の色をキレイサッパリ振り払い、今度は自信たっぷりに言い放つロイにハボックの両肩が下がる。
「はいはい、そうでしょうよ。で…その映画とタンゴとの因果関係は?」
わずかな時間に、陰と陽を自在に切り替えて見せるロイにこそ、今なお部屋の四方上下を震わせながら泣き叫んでいる、
複雑なバンドネオンの音色が似合うのではないか。
そんな事をひとりごちたあとに、ハボックは軌道修正の一言をロイに投げかけた。


「一言で言えば、あれは【裏切り】の物語だった」

ロイが強調した不穏な一言が、ハボックの背骨に深い余韻を刻み込む。
言葉とは不思議なもので、口にした人物によって言霊の強さが変わる。
【裏切り】とは、いつかロイがかならず通ることになる道であり、自分も間違いなく彼の背後を追って、その道を踏むことになるのだろう。
過去の彼が見たという、裏切りの物語をじっくりと堪能するために、咥えるだけで燻ることの無かった煙草にハボックは火をつけた。

「友人を裏切り、レジスタンス活動を援助する恩師を裏切り、心惹かれた女性まで裏切って、主人公は体制に沿おうとするんだが…」
「あんま、本腰入れて見たいような映画じゃなさそうですね」
「ああ、全くな」

だが、関わった者たち全てを色んなかたちで裏切って行く男の姿は、考えを読ませない爬虫類の冷血を思わせて、視線を逸らすことを許さなかった。
遠い東方の国の仮面によく似た無表情で、戸惑いの欠片さえ見せることなく人の命を奪う主人公には、
さすがにシンパシーを抱くことは出来なかったが、ある種の爽快感を掻き立てられたことも確かなことだった。
しかし、その非情さに対するひそやかな興味も、主人公がそこに至った原因である幼少時のトラウマが明るみになった途端に、
急速に萎れてしまったのだが。

「今となっては、女性同士のダンスシーンだけが唯一の見所の映画だな」
「そりゃ、目の保養になりそうっすね」
本当は、印象深いシーンを上げればキリがないのだ。
しかし、それを全て消し飛ばしてしまうほど、ショックだったのだ―――幼くして背負うことになったトラウマが、その後の人生を歪めてしまう物語が。


(2004.04.27 つづく)


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