バンドネオンの夜(1)(137 ダンス)


「今回は格別の重さですねー」

蓋の閉まりきらなかった大きなダンボール箱を抱えて、ハボックは緋色の絨毯が貼られたアパルトメントの階段を昇っていく。
元々ワンフロアーに二部屋だけしかなかったこのアパルトメントの二階は、現在、ロイ・マスタング大佐の官舎として使用され、
一階は彼の警護隊と従者たちの詰め所となっている。
佐官クラスともなると、挨拶代わりに贈られる付け届けはかなりの数になる。
ましてやロイ・マスタングは、現在東方司令部の副司令官という地位に在る。
その結果、中央勤務の多数の佐官などとは比べ物にならないくらいのそれが、日々送り届けられて来るのだ。

「その重さに比例して、おまえも分け前にありつけるのだから文句を言うな」
「へいへい」

平素なら手馴れた従者たちが、その中でもロイの食指が動きそうなものだけを選別し、あとは司令部内で処理するように整えているのだが、
今日は新しくロイの従僕に着任した者が気を利かせて、ひとりでその作業を行ったものだから、いつも以上の大きさの箱が
ロイの官舎に運ばれることになったのだ。

「こっちは割れ物の箱ですか?さっきのよりかなり重いっすね」

重い重いと何度も口に出してはいたが、その重さを微塵も感じさせることなく、ハボックは筋肉を纏った二本の腕で軽々と箱を支え、
息も乱さずにロイの二段下をついてくる。
高価な品物を無造作に放り込んだ箱をロイの部屋に運び込んだあとの、より細かな品物の選定もハボックの役目だ。
それは自分に任されている仕事の範疇からはみ出したものだったが、その報酬として尉官の稼ぎでは到底味わうことの出来ない酒や、美味・珍味を
手に入れることが出来るのだから、本当に文句は言えない。
それに何よりも、公務以外の時間にロイの傍に堂々と身を置くことが出来る
この作業は、ハボックにとってはお誂え向きの内職だった。

「この箱もここに置いていいんすか?」
「ああ。おまえが作業をしやすい場所ならどこでもいい」

愛用の黒いカシミヤのコートは既に脱ぎ捨てていたが、まだ着崩してもいない隙の無い軍服姿のロイは、取り出してきたミネラルウォーターを
ボトルのままラッパ飲みしている。
しかし重労働をこなしたばかりの部下に、手にした水の一滴をめぐんでやる、そんな気遣いはいつもながら彼の頭には浮かばないらしい。

「俺も喉渇いてるんすけどねー」

一気に中身が半分ほどに減ったボトルをロイの手から奪い、残った水をハボックも一気に飲み干した。
間接キスの機会を狙うローティーンの頃は遠く過ぎ去っていたが、その気持ちがまだ自分の中に残っていることを実感して、
ハボックはボトルを手にしたまま、自分が運んできたふたつの箱の前にペタリと座り込んだ。

「本はこっち側にまとめておきますよ」

この大きな箱の中でロイが興味をしめすものはいつも唯一書籍のみで、それもかなり珍しいものでもない限り見向きもしないのだから、
東方司令部のナンバー2におもねろうと画策する者たちには、なんとも申し訳ない話だ。

「酒はこっちで、食いモンはこっち。骨董品とかの類は―――」
「まだそんなものを贈ってくる奴がいるのか」
「アンタ、そりゃないでしょ…」

冷淡に言い放つロイに対して、苦笑いを浮かべたハボックだったが、権力者に付け届けを贈って寄越す姑息な者たちを切り捨ててこその彼だと、
喜ぶ自分が居ることも否めない。

「ああ、ハボック。本に匂いがつくから煙草に火はつけるなよ」
「…アイ・サー」

それでも自分に対する横柄な態度だけは、もう少しだけ改めてくれれば嬉しいのにと、どうしても思ってしまうのも確かなことだった。


馴れた作業は順調に進み、見る見るうちにハボックの周囲は、彼の手で仕分けられた高価な品で埋めつくされた。
積み上げられていく度に、せっせとロイ自らの手で書棚まで運ばれていた書籍も、途中で見つけた古書をロイがひも解き出してからは、
減ることなく床に積まれていくに任せている状態だった。
床に直接敷かれたラグの上に腰を下ろしていた男ふたりは、各自が別々のことに熱中するあまり会話もなく、
暫くの間広い部屋の中には床に物を置く硬い音と、その合間に重なるページをくる紙の音だけが静かに響いていた。

「へぇ、珍しいな…」

そんなゆったりとした時間に終止符を打ったのは、割れ物を入れた箱の底を覗き込んでいた男だった。
今までとはあからさまに異なる、文字通り割れ物を扱う優しさで両の手を箱の中に差し伸べたハボックに興味を掻き立てられて、
ロイも誘われるように箱の中を伺い見た。

「何が入っているんだ?」

大雑把に目を通した書籍から完全に意識を離し、ロイの関心の全ては今、ハボックが慈しむ手つきで取り出そうとしている代物に移動していた。
「いえ、別にモノ自体は珍しくないんですけどね。この箱の中にあるのが珍しいってことで」

好奇心ゆえに耀き出して、濡れたようにも見える黒い瞳を曇らせるわけにはいかないと、ハボックは言葉の綾を解きほぐしながら、
ことさらゆっくりとした手つきで件のものを取り出した。

「これっす。ただのレコードなんですけど、付け届けの品にしては珍しいと思いまして」
「確かに珍しいな」

箱から現れ出たものは、透明なフィルムに包まれた12インチのSP盤のジャケットで、音楽にそれほど詳しい訳ではないふたりには、
この一枚のアナログ盤がどれほどの価値があるのか、推し量る術も無かった。
しかし、どれほどのレア盤であったとしても、それを手にして喜ぶ者の手に落ちなければ、全くのところ無意味でしかないのだ。
そういった意味では、ロイ・マスタングに下手な付け届けを贈ること自体が、同等のことだとも言えるのだが。

「これ、どうします?」
「どれ、貸してみろ」

未だハボックの手の中にあった12インチ盤は、それでもロイの興味を幾分かはひいたらしい。
それは多分――――

「あー、やらしいなぁ大佐、このジャケットに興味津々なんでしょ?」
「煩い。私が貰ったものだ。手に取ろうが、眺めようが、プレイヤーの上に置こうが、勝手ではないか」
「はいはい、どうぞ」
「【はい】は一度で充分だ」
「はーい」

垂れた目尻をより一層に下げて、ニヤリ笑いを零し続けている部下の手から、ロイは乱暴にSP盤を取り上げた。
ロイにとってはなんとも悔しいことだが、確かにハボックの指摘はとても正しいものだった。
重く襞が波打つ緋色の緞帳をバックに、黒いシフォンのダンス用スカートから伸びる形の良い女の素足をクローズアップしたジャケット写真は、
充分すぎるほど鑑賞に値するもので、角度を換えて見てもその美しさは変わらない。
――――興味を持ったのが、器からで何が悪い。
そう開き直って、ロイはハボックから奪い取ったレコードのフィルム包装を破り、紙のケースから取り出した黒い盤だけを
再びハボックの手の中に押し付けた。

「ハボック、このレコードをかけてくれ」
「へい。…ところで、これってどんな音楽なんですか?」

音楽を閉じ込めた薄い溝を傷つけぬように丸い縁を指で支えながら、ハボックはリビングの片隅にポツンと置かれている、蓄音機の方へ足を向けた。

「タンゴのようだが、どんな曲かは聞いてみなければわからんな」
「へー、アンタにも不得手なものがあったんですね」

なぜか嬉しげな声で返事をしてから、ハボックは艶やかに光る黒いSP盤をターンテーブルの上にセットした。

クランクを充分に回したあとに続く、パチパチという微かな針飛びの音。
それすらも音楽の一部だというように、乾いた音は長く続き、ハボックがロイの傍へ戻る時間を余るくらいに稼いでくれた。
次に一瞬の沈黙が落ち、その後を受けた高く鋭いバイオリンの音色が、静けさに慣れた部屋の空気を震わせた。


(2005.04.22 続く)


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