THE NIGHT PORTER (8)


「――――っ!」

悲鳴になりそこねた声が、細くポーターの喉から洩れる。
だがその恐慌に満ちた小さな声は、目の前に居るふたりの耳には届かなかった。

「痛いかね?」
青年の右胸に乗る、淡い色に触れんばかりの場所でソムリエナイフは留まっていた。
そしてその刃が通った道筋に、パックリと赤い肉の花が開いていく。
そこから滲む赤い蜜に誘われるように、再びブラッドレイはその左手を青年の肌に伸ばした。
「これはイシュヴァールの時のものか。痛みに慣れすぎて、もうここでは何も感じられなくなっているのかな?」
ゆっくりと鮮やかな赤が肌を濡らす。
ブラッドレイが新しく拵えた傷の下の皮膚には、枯れた花の色が沈んでいた。

「…っ…」
模様のような薄い褐色に、男の堅い爪が触れるのと同時に、青年の背筋が揺れた。
皮膚を裂かれる痛みに気丈に耐えてみせた彼も、今のブラッドレイが背負う、圧倒的な暗黒に対する怯えを隠すことは出来ないらしい。
「ほう、時には素直にもなるらしい。いつもそんな風に自分の感情のままに振舞ったならば、もっと可愛らしいだろうに」
残念だ―――そんな最後の一言を唇の形だけで告げて、
ブラッドレイは青年の腹部まで垂れ落ちてきた血の一滴を、人差し指の腹で掬い取った。

「安心したまえ。もう痛い思いはさせないよ」
優しい、優しい、優しい声。
粟立つ肌を宥めるその声のリズムに合わせながら、ブラッドレイは血に染まった指先をなだらかな肌に置き、
そのまま青年の左胸―――心臓の上までなぞり上げた。
赤く引かれた半円が、青年の身体を汚して飾る。
「何をなさるのですか」
「今は黙っていたまえ、マスタング中佐。君にはあとでたっぷりと声を出してもらう予定だ」
青年のおびえを含んだ疑問を振り払い、彼の鼓動を直に愉しんだブラッドレイの指は、不足してきた絵の具を求めるように真新しい傷口に戻っていく。
可憐な突起のすぐ傍で光る液体に誘われたのか、迷うことなくその一筋を掬い取り、
今度は時間を逆行する向きで青年の締まった腹部と胸の下を通り、血の半円を描いていく。

「君はこれを見てどう思うかね?」
ブラッドレイの視線は、熱のこもったキャンバスとなっている青年の肢体から外されることはなかったが、
微妙な声の音域の変化で、質問を下した相手を指し示していた。
「あ……」
その機微を捉えることはなんとか出来た。
けれど、干からびた舌が上あごに張り付くのを、上手く剥がすことが出来ない。

「あまりのことに言葉が出ないと見える」
愉しそうな笑みを含んだ男の声が終わらないうちに、ゆっくりと肌の肌理を堪能するように二度目の半円を描いていた指が、
再び青年の心臓の上にたどり着いた。
そうして一度目の半円と二度目の半円が結ばれ、赤い環が青年の身体の上で完成する。

「なかなか上手く描けておるな」
ブラッドレイの満足気な声だけが、広い部屋に響く。
自らの手で青年の肌を汚していく遊びが気に入ったのか、男はひどく饒舌になっていた。
「彼は…ロイ・マスタング中佐は軍人として優秀なだけでなく、錬金術師としてもこの上ない才能を持っている。謂わば彼は我が国軍の宝なのだ」
その掌中の珠を愛でる手つきでもう一度、ブラッドレイは濃い赤に染まった指で青年の傷口に触れた。
「錬金術は長い歴史を持っている。アメストリスの暗黒の時代に光をもたらしたのは、錬金術の稀有なる科学の力に他ならない」
ビクリとまた青年の身体が小さく跳ねる。
魚籠に入れられて長い魚の小さな抵抗、そんな非力な身体の足掻きとは異なる彼の表情に、またもやポーターは惹きつけられる。
裂けた皮膚の痛みからなのか、自らの血を弄ばれる屈辱からのか、火照った頬のあでやかさ。
しかしそれよりも、壮絶だったのは。

「良い目だ」
ブラッドレイにそう賞された黒い瞳は、傷からくる熱で濡れてはいたが、張り裂けんばかりの怒りに染め上げられて、
目の前の権力者を睨みつけている。
声を洩らすまいと、そこからも血があふれ出しそうなほど硬く唇を噛んでいる歯の白さも眩いばかりで、
漆黒のイメージの権力者に対し、懸命に抗っていることを示す象徴のようだ。


「さて。錬金術の神秘に精通している君のことだ。私が君の身体に描いているものが何であるか、もう理解しているであろう」
穏やかな問いに導かれて、青年の清冽な表情に心を奪われていたポーターの視線が、赤く彩られていく青年の上半身に移っていく。
形良く描かれた円環の内側に、いつの間にかその円に沿う形で細かな文字が書かれていた。
ごつごつとしたブラッドレイの指からは想像も出来ない繊細な血文字は、傍らのポーターには、生まれたばかりの小さな蛇のようにも見える。
そして青年の肌を糧にして食い破りそうな、その邪悪な数匹の蛇を閉じ込める、もうひとつの小さな円をブラッドレイは完成させた。

「知っての通り、私は錬金術師ではない。よってこの連成陣を完成させたからといって、術を発動することは出来ない」
短い沈黙の後に口を開いた権力者は、その言葉と共に指の動きを再開させた。
「閣下、これをどこで…」
「さあ、どの文献だったかな。先ほども言った通り、私は錬金術に関しては門外漢だ。
だが、望めばアメストリス中の書物や研究書を閲覧できる地位に在るのも確かなことなのだよ」

錬金術の歴史は千年以上の時を遡る。
その間に大小に枝分かれした術師たちのギルドは、それぞれの得意分野の研究書体系をその頂に置き続け、その多くが門外不出となっていた。

そして、その不変の歴史の流れの中で、協会から異端と見なされたギルドが複数排出されていた。

―――これは……間違いない。

協会から追放された異端のギルドの研究書の殆どが、焚書の憂き目にあっている。
だから、実物を見たことはなかったのだが。

「これは【ヘルメスの杖】の…?」
「さすがは指折りの国家錬金術師だけのことはある」
「閣下!」

国家錬金術師にとっての最大のタブーはふたつ。
汝、人を造ることなかれ。
汝、金を造ることなかれ。
だがそれは、市井にある錬金術師にとっても同じく禁忌であるのだ。

そしてそれに加えて、人の命を了承なく等価交換することも―――。


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