THE NIGHT PORTER (9)


「おやめください、これは異端のギルドが完成させた錬成陣です!」
この夜、初めてポーターが耳にした青年の叫び。
「そんなことは君に言われるまでも無く知っておる」
それをすげなく退けて、ブラッドレイの指は先程と変わらない動きで、闇へと繋がる錬成陣を完成させるために、
にわかに青みを帯び出した肌の上を蠢いていた。
「身体に忌まわしい印を結ばれることが嫌なら、君が私の手から逃れればいいだけのことだ」
それが出来ないのであれば、沈黙と服従だけを残した肉塊としてここに留まれと、醸し出す空気だけで青年を制圧した男は、
その次の瞬間にはお手上げだと言わんばかりに肩を竦め、途方に暮れた表情で天井を見上げた。

「ああ、すまない。もう君に痛い思いをさせたくはないのに、なんと言うことだ」
固執していた青年の肌から、あっさりとブラッドレイは指を離し、染まった血の赤さを見せびらかすように、右手をひらひらと振った。
その仕草は、ブラッドレイの地位と年齢からすれば、随分と親しみやすいものだ。
しかし、ほんの僅かな間に人格が入れ替わったかに見える権力者の二面性は、彼らの傍で立ち尽くすばかりのポーターに、
恐怖以外の何ものをも伝えることをしなかった。


「目測を誤ったな」
この場にあっては哀れなほど健全な若い身体は、完璧な治癒力を見せ付けて、真新しい傷口から零れる血を凝固させていく。
未完成の錬成陣を完成させるためには、ふたつ目の傷が必要なのだ。
「この傷ひとつだけで完成させる予定だったのだが…」
子供に飴を差し出すような心安さで、青年の肩に手を置いて、まずは瞳だけで許しを請う。
「閣下、お戯れが過ぎます。このような遊びは悪趣味です」
だが、そのあざとさを、今度は青年もやり過ごすことをしなかった。
ブラッドレイが作り出した筋書きを否定する語気の荒さ。それは、一気に増殖した恐怖が、青年を完全に捕らえたことを物語っていた。

「そうだな、マスタング中佐。君が言うとおりこの趣向が悪趣味だということは認めよう。だが―――」
今の今まで、眠っていた権力者の左腕が上がる。
それは素人の目では追いきることの出来ない、刹那の出来事だった。
「く…っ」
ため息と間違えてしまいそうな小さな苦鳴。
それをあげたのが誰なのか理解する間もなく、ブラッドレイの左腕は、何事も無かったかのように、揺れることもせずに元の位置に戻されている。
その手に掴まれた銀のソムリエナイフが、部屋の照明を照り返して禍々しい光を放つ。

「君も男なら理解できるであろう。遊びはすぐに本気に変わるものだ」
自分に捧げられた身体を心許なく護っていた白いシャツを、ブラッドレイはためらうことなく片手で抜き取っていく。
「引き返すことはかなわない。観念したまえ、ロイ・マスタング」
王者の風格で名を呼ばれ、ブラッドレイを仰いだ青年佐官のむき出しにされた右肩には、一筋の真紅の傷がひかれていた。



鳩尾に丸い緋色がまず落とされた。
宝石のようなそれが核となり、そこから数本の細い枝が伸びていく。
それになんの意味があるのかは判らない。
それでも陶然とした眼差しで、赤い網を広げていくブラッドレイと、その網の中で屈辱を耐えている獲物の姿を見守ることが、
今のポーターには何にも換えがたい至福になっていた。
堕落という穴に落ちていく悦楽。
そこにどれほどの毒が含まれているかうすうす悟っていても、それを手放すことなど考えられなかった。


「セフィロトの樹は単純であるがゆえに、うまく宇宙を表している」
よどみなく描かれていく、赤い十の宝石と、それを繋ぐ二十二の径。
宇宙を表すその簡潔な図を、アメストリス国民は何度となく目にしてきた。
その見慣れた小さな宇宙が、魅惑的な人体の上に構築されていく様子はなかなかに圧巻で、否応なく惹きつけられる。
ブラッドレイの手で伸ばされていく細い径は、さながら青年の白い肌に浮かび上がった血管といったところだろうか。

「ふ…っ…」
上半身を緩くなぞられる感触に、時おり青年の口から声が洩れる。
目を閉じてその声を耳にすれば、そこに潜むわずかな甘さを感じることが出来たかもしれないが、瞬きの一瞬さえもが惜しいと感じる、
静かな饗宴を前にしてはそれも無駄なことだった。

「あと少しの辛抱だよ。もうすぐ完成する」
神の存在しない場所。
その汚れた空気に触れた傷口を抱えて、縋るものも無く、膝立ちの姿勢を強いられていた青年の身体が目に見えて震えだしたのは、
そのブラッドレイの予告の声を聞いた直後だった。

「何も怖がることはない。たかが二匹の蛇ではないか。それのどこが恐ろしいと言うのだね?」
「恐れてなど…おりません」
あからさまに歯の根の合わない震えを瞬時だけでも押さえ込み、ブラッドレイの問いに応える青年の強がる様子は、
本物の蛇も舌舐めずりせずにはいられない健気さだった。

「それでこそイシュヴァールの勇者だ。神の杖から離れた蛇たちなど、恐れることはない」
独り言のように呟いてから、ブラッドレイは絵筆の代わりの指を青年の肩先に伸ばして、そこに盛り上がる血の珠を掬い取った。
肉の痛みとは別の衝撃に、黒い瞳が見開かれる。
「私が行う余興はこれが最後だ」
それが合図であったかのように、バランスの取れたセフィロトの樹の下に、木の実を狙う二匹の蛇をブラッドレイは描き込んだ。

「今度は君が彼を愉しませてやるのだよ」

ひそやかな笑いを含んだ低い声には―――

それはまるで、錬成陣の中を這う蛇たちが囁いたのかと錯覚をしてしまうほどの。

―――優しげな残酷が満ちていた。



疑われたのは、いつの間にか進み行く目的地になっていた野心なのか。
見咎められたのは、膨らんでいく一方の、今となっては両の手で抑えつけることもかなわない恋情なのか。

「錬金術は奇術ではありません。人の役に立つことであるならばともかく、人の興をそそる為に用いるものではないのです」
正論を盾にして、最後の防御を図る。
どちらも暴かれるわけにはいかない類のものだった。
前者は時が満ちるまで、後者は自分が冷たい墓に入るまで、死に物狂いで守らねばならない秘密なのだ。
「私がそう望んでもかね?」
「そうです。いくら閣下の命令であろうと、国家錬金術師である私が、このような異端に手を染めることは出来ません」
それがどれだけ白々しい科白であるか、そんなことは百も承知だった。

軍の頂点に立つ大総統の命令に背くことと、錬金術師としての禁忌を犯すこと。
国家錬金術師としてのふたつ名を与えられた日から、それはどちらも同じ重みを持つ足枷になっていた。
どちらを選んだとしても、お咎め無しで済むわけが無い。
それすらも見込んで、ブラッドレイはどちらかを選べと突き付けているのだ。

「それに私は、この錬成陣を用いてまで手に入れたいと望む、そんな大それた野心は持ち合わせてはいません」
人の命と引き換えにして、欲望を満たすために生まれた呪わしい錬成陣。
それがどれほどの威力を持つものなのか。
「誓えるかね?」
「勿論です、閣下」

底の見えない呪詛を刻まれた肌の下で、欲望がゆるゆると揺さぶられる。
その感覚に肌を泡立たせながら、ロイ・マスタングは笑みを崩さない権力者に向けて、深く頭を垂れた。


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