最果て(前編)


「一緒に旅に出よう、ハボック」
「はぁ?急に何言ってんすか、アンタ」

この人が思いがけないことを突然言い出すのは、昔からのことだった。
あれがしたい、これが食べたい、あそこに行きたい、そう言われるたびに俺は文句を言いつつ東奔西走して、彼の希望に沿うように勤めてきたけれど。

「今ふたりして旅に出ようもんなら、俺もアンタも中尉に射殺されますよ?」
「オーバーだな、おまえは。私は何もロードムービー並みの長旅をしようといっている訳じゃないんだぞ」

彼との逃避行のような長旅を想像しただけで、俺は幸せな夢に酔うことが出来る。何も考えなしに手に手を取って、
今すぐにあの扉を押し開いて歩き出していけたなら。
でもそれを実行に移すためには、先に自分たちを繋ぐ足枷の数々をどうにかしなければならなかった。

予測もしなかった長期入院でたまりにたまった仕事は、あの手やこの手を借りての人海作戦でなんとか乗り切り、
ようやく一息つけるほどにはなってはいた。
だがそんなハプニングを差し引いても、まだ慣れない中央司令部の中で、引継ぎを未だ終えてない業務に追われる慌しい日々は
まだまだ続くに違いなかった。

「当たり前でしょ?これ以上長期休暇を申請したら、俺たちの席、司令部の中から取っ払われちまいますよ」

そしてその表立った業務以上の難物を、この人は―――――俺たちは抱え込んでいたのだ。

「それに・・・アンタ、早くたどり着きたいんじゃないんスか?」

俺たちふたりが何年かけたとしてもたどり着けない場所がほんの少しだけ、あのわけの判らないガラクタに床一面が覆われた、
殺伐とした雰囲気の研究室で赤い唇を開いたのだ。

親友の命を奪い去った何者かと、そこに繋がる大きな暗黒を追いかけることに、この人は心を奪われていた。
今だってきっと、その残酷で魅惑的な唇に指を突っ込んでこじ開ける、そんな狂的な望みを抱いているはずだ。

「ああ、そうだ。しかし手駒が弱っているときに無理な行動はできんだろう?おまえに言われなくても、私はいつかそこにたどり着くよ」

だから慌てるな・・・と、静かな声で彼は言う。
東部司令部からの異動組は、何かとひと括りでチーム・マスタングと揶揄されているが、あながちそれは的外れではない。

彼の何にそんなに魅かれるのか、それは今でも正直言って判らない。




ほんの数ヶ月前に俺たちは、彼の単独の指示を受けて秘密裏に作戦を決行し、そしてとんでもない目にあった。

揃いの傷と火傷を腹に刻んだ者同士、同室で並んだベッドの上の入院生活中、彼は俺の前では決して沈んだ顔もしなかったし、
痛みも痒みも感じない動かない俺の足のことにも、大した追求をしてはこなかった。
けれど彼の苦悩を、俺は夜毎目にしていたのだ。
白いシーツに湿った髪を打ち付けて、慌しく浅い息をついて苦悶しているのに、それでも彼は昼間の彼と同じで頑なに声を出そうとはしなかった。

動けないベッドの上で、その悪夢から彼を解放してやることの出来ない俺は、情交のときに見せる表情と仕草に少しだけ似ている彼ののたうつ姿を、
複雑な思いで見守るだけだった。
夜の夢からさえも彼を救ってやれないやるせなさと、追い詰められても俺に本音を見せようとしない彼の本音を垣間見れる心地よさと。
どちらの気持ちがより重いのか、その日によってグラグラと行ったり来たりで、自分自身でも計りかねる状態が暫く続いたが、ある日の夜。


「そうですね。俺たちも一緒に連れてってくださいよ」

彼は一言だけつぶやいたのだ。

もう失いたくない―――――と。

「ああ、お前達が私についてこれるのならな」

*****   *****   *****

「なんでこの寒い最中に、北に行こうだなんて思ったンすか、大佐〜」
「煩い!冬が寒いのは当たり前だろうが。その季節を愛でるためにはな・・・クション!!」
「ほら、アンタだって寒いんでしょ?俺たち腹にイチモツじゃなく傷持つ身なんですから、
それに見合った湯治かなんかにしたほうが良かったんじゃないんですか?」

たった一泊二日の旅に、ロイが選んだ場所は北の湖沼地帯だった。
冬以外の季節であれば、茂る緑も、陽に光る湖水もそれは見事だろうとハボックは思う。
だが今は、それらは全て冷たい風と雪に閉ざされて、清潔な白だけがふたりを出迎える。

ホークアイに休暇の申請を打診したのは、一週間前のこと。
その時は鼻で笑って、瞳の奥で怒って、彼女はふたりの休暇届を屑籠に放り投げるくらいのことをするだろうと思っていた。

「ホークアイ中尉も傷を癒す旅だと思って、二日間も休暇をくれたんじゃないスかね?」
「旅に行こうと言い出したのは私だ。それに乗ったのはおまえ。主導権は私にあるのだからもう黙っていたまえ」

ザックリと編まれたマフラーに顔半分をスッポリと隠しているのに、不思議とよく通る声でロイがハボックの不満を跳ね返す。
この上司も、その副官も、二人して負けず劣らずの天邪鬼だとハボックはひっそりとロイの背後で苦笑を浮かべ、そしてすぐに表情を引き締めた。



休暇届の紙を一瞥しても、ホークアイは仕方ないと最初から諦めていたかのように、ため息をひとつついただけで、
覚悟を決めていた冷たい非難を一言も口にすることはなかった。
ただ、唇はなにも告げてはいなかったが、それよりも雄弁なものはあったのだが。

「いいなぁ・・・」
「何がだ?」
「あ、いえ・・・なんでもないっすよ」

白く冷気に取り込まれていく吐息に隠して呟いた言葉を、ロイは耳ざとく聴きつけて問い返す。
けれど、本当のことは言えない。言いようが無かった。
あの時、茶色のキレイな瞳を揺らしたホークアイに嫉妬しただなんて。

ソラリスに貫かれ、ロイに焼かれた傷口が急に疼き出す。
この身体に刻まれたその引き攣れた醜い傷は、ロイを護りきれなかった悔恨の徴でもあり、
ロイが身を挺してハボックを助けてくれたという歓喜の徴でもあった。
しかしロイの手で傷口を塞がれていた時の自分は、その悲壮であったに違いない彼の表情を捉えることなく、
虫の息であの世とこの世の狭間をさ迷っていたのだ。

未練タラタラと身に着けていた昔の女から貰ったライターで焔の渦を作り出し、一瞬ではあったが自分がロイから離れられるかもしれないと、
そんな淡い期待を抱いて付き合い始めたソラリスという妖しい華を、ロイが焼き尽くしたその同じ空間さえ、自分は共有することも出来なかった。
まだこの目で見たことは無い、それほどまでに壮絶なロイの姿。
それなのにホークアイは、イシュヴァールの昔と第三研究室の現在に、生き証人のように彼の傍らに立ち、あの美しい瞳にその情景を焼き付けたのだ。

例えそれが虚無の淵に立つ、業火を従えた悪魔のような姿であろうと、自分は彼の全てを記憶にとどめておきたかったのに。

「ズルイっす、中尉・・・」

またもや口をついて出てきた言葉。だが今度は、ロイの追及がハボックを問い詰めることはなかった。
ロイの意識は、もう既に前方に見える儚い存在に奪われていたからだ。



「あの樹を見ろ、ハボック」
「なんすか・・・ああ、あれは」

静かに舞い続けているボタン雪の中に、小さな灯火のような赤が前方に見える。

「もしかしたら、リンゴ・・・っすかね?」

こんもりと雪に覆われた小高い丘に一本だけ根付いた野生のリンゴの樹に、取り残された歪なリンゴをロイは指差していた。



←短編頁  後編→


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送