最果て(後編)


旅の途中でもロイの気まぐれは健在だった。
元々が田舎育ちのハボックにとって、その貧弱な赤い果実は子供の頃から見慣れたもので、大して興味を引くものではなかった。

「リンゴというものは、こんな時期まで木にぶら下がっているものなのか?」
「んー、農園で栽培されているものなら、遅くても11月中旬には収穫されてるでしょうね」

けれど人の手が入っていない野性のリンゴは、味も見た目もみすぼらし過ぎて誰も相手にはしない。
地に落ちて朽ちていくか、もしくは野鳥についばまれるか。大抵はそんなものだった。

「もう12月も半ばなのに、なかなかしぶといですねー」

雪のひとひらにふいに熱を奪われてしまった咥え煙草に、悪戦苦闘で火をつけようとしながら、ハボックはなんとはなしに言葉を続ける。
それを全て聞き終わる前に、ロイは急に目標を見つけた子供のように足早に雪に覆われた丘を登っていく。
何もかもが隠された白い風景は、普段であれば目にとまらないちっぽけな存在に光を当て、かけがえのない宝物のように見せるものなのだろうか。
近づいてよくよく観察すれば、それはただの萎びたリンゴだということが判るに違いない。
そんな錯覚さえ愛しく思うロイの背中を見失わないように。
ただそれだけの為に、ハボックは煙草の火を諦めて、容赦なく雪がかき消していこうとするロイの足跡を追った。


「近づいてみると結構高いところに生っているんだな」

ハボックに背中を向けたまま、上を仰ぎ見ながらロイは呟く。
それに釣られてハボックも、今にも雪に浚われそうな小さなリンゴに視線を向ける。
長身のハボックがめいっぱい腕を伸ばしても、はるかにそれには届かない。
神聖な宝石のごとく白い世界にポッカリと浮かんでいる果実は、確かにロイの目を引くのに充分な鮮やかさだ。
近づくことで気まぐれに魅了された魔法が解けると思っていたハボックの、そんな思惑をあざ笑うように高みに生っている果実の背景には、
この丘を登りきらなければ全景を目にすることが出来なかった古い教会がひかえていた。

「こんな鄙びた場所にしては、かなり立派な教会ですね」
「ん?ああ、あの教会か?」

飽きることなく羨むように、頭上の果実にばかり意識を向けていたロイが、ハボックの声に反応して漸くわずかに視線を下ろす。
雪にかすんで見える、過去の繁栄を歴史に刻んだ北方の町の、その栄華の名残。

「バロック様式か。かなりの歴史的建造物だな」

完璧な冬の白さに閉じ込められた、危うく歪んでなお美しい荘厳な建築物をロイは暫く見つめていたが、
その興味の対象はすぐさまちっぽけなリンゴの実に戻ったらしい。
再び繊細な首筋をマフラーから少しだけ除かせて、日の当たらない無垢な色をハボックの目の前にさらしながら、
細い枝に点る赤い果実を見上げている。

「もしかして、腹減ってるんですか?」
「ん・・確かに腹も減ってるが」
「言っときますけど、野生のリンゴなんて酸っぱいだけで食えたもんじゃないっすよ」
「ほう、さすがに田舎育ちだ、よく知ってるな」
「チビの頃、散々な目にあってますから」

汽車を降りてから約一時間、雪の中の行軍ではじめて行き当たった観光名所らしき場所をあえて無視するように、
ロイは何が気に入ったのか、細い木の傍に佇んで動く気配がない。
それどころか。

「やっぱり気が変わった。おまえが味わったものを私が知らないのは癪にさわる。ハボック、あの実を取って来い」
「えーっ!」

彼の気まぐれは、降り止まない雪のようにとどまることを知らない。



かじかむ手で、ささくれ立った細い枝を掴んで、滑るつま先を不安定な枝の股に引っ掛けて。
防水性の高い重い靴を履いていても、冷たさは容赦なくつま先に忍び込んでくるけれど、
その季節が運んでくる小さな悪意さえ今のハボックにはささやかな幸福に摩り替わる。
こんな些細なことが再び出来るようになるとは、思いも寄らなかった。
ロイとふたりして、並んで歩くことさえ諦めていた日々はそう遠いことではなかったのに。

「どうだ、取れそうか?」
「大丈夫ですよ、ここまで上ればあとは腕さえ伸ばせば・・・・・ほら!」

手にしてみればそれは本当に小さな、ハボックの掌でスッポリと覆ってしまえるほどの、貧弱な木の実に過ぎなかった。
その儚さを確かめるように、ハボックは赤い実を掴んだ右腕を、真に裸木になってしまったリンゴの枝に倣って天空に掲げてみる。
ハボックの手の上で、雪にけぶって一層厳かさを増して見える教会に重なったリンゴは、その重苦しい色彩を照らす唯一の、微かな明かりのようだ。

「何をしているハボック!早く私に投げて寄越せ」
「はいはい、んじゃ投げますからね、気をつけてください!」

その声と共に、小さな焔が落ちていく。
ハボックの手から、ロイの手へと。

人が作った文化の花が結んだ実である教会だけが見つめていた、野生の白い花が結んだ果実に口付けるように、ロイが果肉に歯を立てる。
その無心な姿を見下ろしてから、ハボックはそのまま目線を上げて、聳え立つ教会の塔の向こうを仰ぎ見る。
――――まだ雪は、止みそうにない。

「お味の方はいかがですか?」
「・・・おまえの言った通りだった」

途方に暮れながら、手にしたリンゴをまじまじと見つめるロイの姿に笑みが浮かぶ。
この先、こんな姿を見ることは暫く無いかもしれないと、静かに覚悟を決めてはいても。

「ギブアップするんだったら、そこの枝の先に実を突き刺しておけばいいっすよ」

そうしておけば、零れた果汁の匂いに誘われて、きっと野鳥が啄ばみに来る。
そして糧として穴だらけにする代償に、それらは種を運んでくれるだろう。

遠くへ。

まだ誰も足を踏み入れたこともない場所まで、遠く。


(*ハボックは必ず治る!そう信じて…)


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