THE NIGHT PORTER (10)


おそらく、自分になら出来るだろう。
それは奢りと言うよりも、国家錬金術師という地位に昇りつめた者ならば、誰もが持つに違いない自負心だった。
遠い昔に葬り去られたはずの錬成陣、それは勿論、自身が構築したものではなかったが、解読することはそう難しいことではない。

「誓いは破られる為のものでもあるのだよ、マスタング中佐」
先ほどから変わることなく、穏やかに微笑み続けているブラッドレイの顔が、だんだんと霞んで見えてくる。
それと同時に、腹に描かれた赤い二匹の蛇が、肌の上でのたうち、暴れているような感覚に襲われる。
どんなに空虚な欲望でも、この蛇たちにとっては胃袋を満たす、この上ない糧であることに変わりない。

肌の上には二重の罠が張り巡らされていた。
本能を剥き出しにして、人の究極の欲望を貪ろうとする蛇たちの欲と、深層心理の奥底に沈められているかもしれない、自分の内なる欲と。
そのどちらをも貪欲に引き出そうとする趣向は、一介のポーターをもてなす為の趣向としては、あまりにも悪意に満ちていた。

「先ほども言ったが、君は色んな意味で優秀な人材だ。そして、その優秀さゆえにそれに見合った野心も持っているだろう」
そう言いながら、僅かに湿り気を帯びて重くなった黒い髪を、ブラッドレイは血を帯びたままの指で撫で付けた。
「そして、人間としての当たり前の欲求として、君にも恋煩う対象が居るだろう。違うかね?」

書類を読み上げるような、感情のこもらない声とは対照的に、後ろ頭にまわされた手が、柔らかな質感の髪を束にして掴み引いた。
その反動を借りて、ブラッドレイを仰ぐ形で白皙の面が上がる。
「だが、欲しいものをその手にする為に、手段を選んでいるようでは、いつまでたっても悲願を達成することは叶わぬぞ?」
「なにを―――」
「否定の言葉は聞かぬ」
言い返す言葉を素早く跳ね除けて、ブラッドレイは後ろ髪を掴んだまま、青年の顔を覗き込んだ。

至近距離で、互いの視線が絡み合う。

その間に落ちた沈黙は、時間にすればほんの僅かなものだったが、彼らを見守る形のポーターには、
その尖った空気の濃密さに縊り殺されてしまいそうな、そんな総毛立つひと時だった。

「機会を逃す痛さを君は知っているはずだ。グズグズしていては、歳だけ取って何も手に入れることが出来なかった…そういうこともあり得る。
例えば君の思い人のように、他の誰かの手に渡ってしまうやも知れんな」
その息苦しさに、ひそやかに喘ぐポーターの腕を取り、引き上げてくれたのは、そんなブラッドレイの挑発の言葉だった。



灼熱に焼けて溶けた鉄が、この身をいたぶるように気道をゆっくりと下りていく。
それがただの幻覚であることは、誰に諭されるまでもなく自分が一番良く知っていた。
けれど、幻が決して人を傷つけないと、誰が言い切れるだろうか。
たとえ壊死する肉は無くとも、リアルすぎる幻覚は、人間のあらゆる場所を傷つけることが出来るのだ。

そして漸く飲み下すことが出来た幻の熱い液体を、腹の中に収めきったあとに湧き上がってきたものは、
自分の醜悪さを推し量るに充分な、安堵のため息だった。
もしもこの男が、あのかけがえの無い名前を口にしていたならば、自分は何を口走っていたか判らない。
その危うさが、変わらぬ自分の脆さだということを、今更ながらに見せ付けられたのだ。

「なるほど。未だに君は失くしたものの大きさに、打ちひしがれているということがよく判ったよ」
ブラッドレイの挑発は、まだ根気よく続けられていた。
守りのうすいい場所を突いてくる正攻法が、いっそ気持ちよいほどのねちっこさだ。
「だが、考えてみたまえ。この錬成陣さえ発動させてしまえば、簡単に彼を君だけのものにしてしまえるのだよ」

誘い込むべき場所も、ブラッドレイは狙いを外すことはない。
その老獪さには頭が下がるばかりだ。だが―――
「彼の今の幸せを奪って…私の飢えを満たせとおっしゃるのですか?」
「その通りだよ、マスタング中佐。完璧な理論だとは思わないかね?人の肉体をあちら側へ放り出し、その者が過ごした時間だけがこの世に残る」
愛した記憶を、愛された時間をその肉体から毟り取って。
「そして術士が等価交換として差し出すものは、自分が過ごしてきた時の僅かな捻れと、人としての良心…ですか」

二匹の蛇が貪った人物のことを、誰もが忘れてしまっても。
その上前をはねた者だけは、決して忘れることは出来ない。
贋者として愛される虚しさと良心の呵責を、生き続ける限り引き摺る生、それを甘んじて受け入れることが引き換えの、
浅ましいとしか言いようのない、虚構の錬成。
「私にそれを行えとおっしゃるのですか?」
「そうだ。君になら出来るであろう?」
あのイシュヴァールの地から、数えることなど不可能な多くの人々を殺めて舞い戻って来た自分になら、
それが出来るとブラッドレイは言っているのだろうか。

それが自分の唯一と言っていい親友の魂を、手酷く傷つけ、裏切ることになろうとも。


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