THE NIGHT PORTER (5)


入ってしまえば、そこは見慣れたホテルの一室でしかない。
それがVIP専用の特別な部屋であったとしても、目にするだけならば彼らにつき従って何度もここに足を踏み入れたことのあるポーターには、
なんら目新しいものなど有りはしなかった。

「君が来てくれて助かった。彼はあのオープナーでないと上手にコルクを抜くことが出来ないのだよ」
その不器用ささえも愛しいのだというように、笑い皴の目立つ柔らかな笑顔を見せる男は、
その微笑の一瞬だけは、彼が手にしている権勢を忘れさせた。
「以前に違うオープナーを用意してもらったときは、折角の美味いワインをそれで飲み損ねてしまったからね」
それでも自らの手でワインのコルクを抜くという発想は、権力者の頭には無いらしい。

数ヶ月前に、手付かずのままで返された赤ワインは、無言の怒りを表していたのではなく、
そんな可愛らしい理由があったからなのだと、ポーターの緊張を解すように笑顔を崩さずに語る男は、
ほんの少し前にポーター自らの手で運んだ銀のワゴンの上から、一本の黒いボトルを手に取った。

「今宵は君のお陰でこれが飲める。礼というほどのものではないが、君も一緒にどうだね?」
「いえ、そのような…!」
その気安さが、親しみよりも警戒心を呼び覚ます。
「マスタング中佐、これを」
「はい、閣下」
思わず後ずさりしたポーターの思惑など、知ったことではないという風情で、
手にしたばかりのボトルを、脇に控えていた青年佐官にブラッドレイは手渡した。
「私のような者が、閣下と同じものを、同じ場所でいただくなど…」
恐れ多い。
ここにきて漸く、自分の置かれた状態に恐れをなしたポーターが、その気さくな申し出に戸惑う様には矢張り目もくれず、
青年佐官はブラッドレイの言葉少ない命令に従って、形の良い右手に握ったソムリエナイフの刃で、
ワインボトルからキャップシールを取り除いていく。

「今になってなぜ遠慮するのかね?君は自分の意思に従ってここまでやって来た。
欲望に忠実だということがどれほど素晴らしいことか、君からも彼に教えてやって欲しいのだよ」
ブラッドレイの視線は、いつもと変わることなくポーターを掠め、コルクにスクリューを埋め込んでいる青年の元へと還っていく。

「それは…一体どういう意味でしょう?」
思いがけず核心に触れられて。
乾いた唇を行儀悪くひと舐めした後に、振り絞るようにそう訊ねたのが、唯一ポーターに出来た、精一杯の虚勢だった。

「その質問に答える必要はない。答えは全て君の胸の中にあるのだからね」
残酷な笑みに眇められた片側の目。
全てを見切ったとでもいうような、その酷薄な瞳の中に、望み通りに自らの姿を見たポーターは、
この部屋に足を踏み込んで初めて、微かな快楽の予兆に身を震わせたのだった。


こんなハプニングが無ければ、一介のポーターには一生味わうことは出来ないだろう。
そんなオールド・ヴィンテージの赤が、なみなみと注がれたグラスを持たされて、ただ立ち尽くすばかりの自分が、どうしようもなく滑稽だった。
居たたまれなさに身を隠すことも出来ず、かと言って、開き直って彼らと混じりあうことも望めない。

その不安定さは、見えない糸に手足を絡め取られ、いつそこから落ちるか判らない状況で、
地上に置かれた旨い餌を見せ付けられているようなものだった。
思い切ってその糸を切ってしまえば、もしかしたら彼らと同じ美味が味わえるのかも知れない。
だがこの期に及んでも、高みの見物とは到底言いがたいその位置から降りていくきっかけを、ポーターは掴むことが出来ないでいた。


「遠慮することはない。君にとっては楽しい余興の前の一杯だ」
「余興…ですか?」
わざとらしい乾杯の声を発すること無く、ブラッドレイは捧げられたルビー色の液体を、見る間に飲み干していく。
「そうだ。その余興が君の想像通りのものか、それは私には判らないが…」
冷やりとした何かが、足元から這い登ってくる。
正体もわからない、何ものかの手で足首を撫でられる感触に、陶然と身を委ねながらポーターは、
いつの間にか自分の傍に近づいてきていたブラッドレイの囁きに聞き入っていた。

「愉しみたまえ。ここにやって来たことを後悔しない為にも」
「……はい」
消え入りそうな小さな声だったが、さかまく欲望に忠実に従ったポーターの答えに、ブラッドレイは満足そうに微笑む。
「よろしい。では、彼の望み通りに計らおうではないか。…マスタング中佐、ここに来たまえ」
そう言いながら差し出された独裁者の手の下へ。
艶やかな黒髪を零れるままに俯いて、青年佐官はゆっくりと跪いた。


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