THE NIGHT PORTER(3)


その日の日付が変わる直前に、一台のエレベーターは最上階までの直通運転に変更になった。

一度部屋に通してしまえば、取り決めの無いチェックアウトの時間まで、ルームサービスの追加もクレームの内線電話も寄越さない、
このホテル一番の上客たちは、本来の意味では全く手の掛からない極上の客だった。
けれど彼らがそこに滞在しているというだけで、このホテルの従業員たちから、安らぐ気持ちは奪われる。
見た目は紳士的で、自分に傅く相手に対しても笑むことを忘れないブラッドレイだったが、
その姿が消えてもなお、その場を支配する暗い存在感は、恐怖政治を布く独裁者のものだった。


「おいおい、ヤバイぞ…グラハム、このワインオープナー、大総統専用のものじゃないのか?」
カチンコチンになった肩を揉み解しながら最上階の部屋をあとにして、漸く自分の縄張りに戻って来たポーターにかけられた言葉は、
短いけれど荷の重過ぎる【本日のお勤め】を終えたばかりの彼を、凹ませるのに充分な威力を発揮した。
「うわっ…本当だ」
厨房係から手渡されたワインオープナーは、シルバーコーティングを施された、一点物のソムリエナイフ型のもの。
「前にも違うものを持ってって、おまえ、支配人に大目玉食ってただろ?」
「あ…うん」
数ヶ月前の出来事を思い出して、若いポーターは重苦しいため息をひとつ吐く。
いつもと勝手の違うワインオープナーに対して、大総統側からクレームがつくことはなかったが、
彼らが部屋から去ったあとのルームサービスの残骸を目にした従業員たちは、一様に顔を青褪めさせていた。


いつもは空瓶となって返される赤ワインのボトルが、まったくの手付かずでワインセラーに戻されたのを知った総支配人は、
いつの間にか大総統付きのサービス係りに仕立て上げられたポーターに、悲壮な顔つきで当たり散らすだけでは収まらず、
彼らが何食わぬ顔で次の逢瀬を果たす一ヶ月後まで、その過ちを引き摺りまくって、延々と愚痴をこぼしていたのだから、
周りの者たちはたまったものではなかった。
「もうあんな目に遭うのはヤだぜ。おまえもちゃんとセッティングを確かめろよな。普通の客とは違うんだからさ」
ブツブツと文句を一通り言ったあとに、どうしようもないと諦めて去っていく厨房係の寂しい背中を、若いポーターは言葉もなく見送った。

手にしたワインオープナーが、ずしりと掌の中で重みを増していく。
こんな初歩的なミスを、一度だけならまだしも、二度までも犯してしまった自分を呪う気持ちと、
簡単な判断力さえ鈍らせてしまう大役を自分にだけ押し付けて、あとは知らぬ存ぜぬでやり過ごそうとする同僚達に対しての恨み言が
彼の胸の中で鬩ぎあう。

「でも、どうしよう」
一度目は見逃してくれたけれど。
果たして二度目があるのか、それすらも判らない。
そしてあの一ヶ月間を、ピリピリと過ごしていた総支配人を思えば、彼に相談を持ちかけるのも憚られてしまうのだ。

ポーターの手の中に納められたオープナーは、もう既に彼の体温に馴染んで、厨房室に戻ることを拒んでいた。



いつもなら、キング・ブラッドレイ大総統一行がホテルに滞在している短い時間内に、夜間専門のポーターが二度、
最上階の床を踏むことはなかったのだが。
(きっと二度目の失敗は赦されない)
そう観念した彼が次に取った行動。
それは潔さという美徳をも備えた、云わば捨て身で行う一種の懺悔とも言うべきものだった。

肝が据わってしまえば、最後の夜になるかもしれないという予感と相俟って、今までの事柄がやたらと鮮明に脳裏に浮かび上がってくる。
彼らの傍でその身に手を伸ばせば触れられる距離で傅いているというのに、まるでそこら辺に植わっている街路樹のように、
注意の欠片ひとつも払われることのなかった自分。
あの極上の客たちにとって自分は手にしたオープナーに引っこ抜かれる、コルクよりも軽い存在でしかなかった。
職業柄、影に徹することに慣れつつあったとは言え、ここまで自分を素通りしていく視線に出会ったのは、初めてだった。

このホテルに骨を埋めようなどと、思ってはいなかったけれど。
右手に握った重さの分しか、自分に価値がないのかと、そう思えばおのずと悔しさが滲み出る。

(どうせクビになっちまうのなら…)

見て欲しかったのだろうか。
自分の姿を、あの目に一瞬でも。

(あの目って・・・?)

ゆっくりと、それでもリズムを乱すことなく階段を上っていたポーターの足が、突然止まる。
今になって気づいた真実に、心臓までも止まってしまいそうだった。
揃って同じ色の瞳を持つ、ホテル随一の上客たち。
けれどそこに宿る気配は、全く別の種類のものだった。
片方を覆う黒眼帯と対のような、闇を塗りこめた漆黒の瞳の壮年の男と、彼に付き従う青年の瞳に宿る暗い焔の揺らめき。
決して馴れ合うことのない、虚無と激情をその瞳に宿らせている彼らが揃うとき、
自分は彼らの背中をどれほど熱のこもった目で見ていたことか。

きっと彼らの間には、愛情は存在しない。
少なくとも、信頼と甘さで作られた優しい感情など、どちらも持ち合わせてはいないはずだ。

けれどこの国で生きていく限り、独裁者であるブラッドレイの権力は絶対で、彼が望んだ事柄には、
それがどんなに意に沿わないものであったとしても、皆がそれに従わなければならなかったのだ。
あの若い佐官にしても、ブラッドレイが望んだからこそ、そのしなやかな身体を、生贄のように投げ出しているのだろう。
ブラッドレイのサーベルを鞘ごと胸に抱いて、権力者に寄り添うように付き従う青年の、痛ましささえ覚えてしまうキツイ目と、
初めて彼らと一緒にエレベーターに乗り込んだときに、偶然に目にしてしまった、骨の浮く手首を巻いた火傷の跡。
それら全てを差し出して、大総統の慰み者にならざるを得ない彼の姿は、さぞ刺激的で美しいものに違いない。

くらい想像は、ポーターの中で秘められた倒錯という存在へと変わっていった。


ホテルのマニュアルにはどこにも載ってはいなかった。
けれどその部屋の宿泊客がそこに留まっている限り、この呼び鈴を鳴らすことは、誰にとってもタブーとされていた。
誰にも告げることなく、最上階フロアに忍び込んだポーターにとっても、今に至るまで目の前にある呼び鈴は、
触れてはいけない禁域に繋がるものとして、意識して見ないようにしていたのだが。
(本当はこの呼び鈴を狂ったように鳴らして、この部屋に招き入れてもらいたかったのだ・・・)
けれどそれを認めてしまえば、きっと自分は元の場所へ帰ってくることは出来ない。
そう思ったからこそ、強く強く、自分の気持ちを曲げるまで戒めて、その誘惑を振り切っていたのだ。

それなのに。
たった一本のソムリエナイフが、自分を戒めていた細い綱を断ち切ってしまった。
(もう戻れない)
万感の思いと共にゴクリと唾を飲み下し、堅く閉ざされた扉の横に備え付けられた呼び鈴に、ポーターは指をかけた。


僅かに力を入れるだけで、それは高らかな鈴の音を鳴り響かせた。
豪奢な部屋で禁断の行為に耽っているであろう権力者と、その贄となっている青年の交合を裂くのに相応しい、澄んだ鐘の音。
それを耳にしているうちに、若いポーターの心は徐々に凪いでいく。
静寂しか許されない場所を乱したのは自分だという、歪んだ満足感が、ポーターの全身を満たしていった。



「何か?」
扉の内側から呼び鈴の音に反応して問い質してきた声は、少しだけ掠れてはいるものの、充分に凛として涼しげな、年若い男のものだった。
「お寛ぎのところ、申し訳ありません。実は、用意させていただきましたワインオープ
ナーが、いつものものではありませんでしたので、従来のものと交換させていただくために参りました」
「・・・少し待っていたまえ」
僅かに躊躇したあとに、返ってきた言葉。
それに続いて、聞き取ることが不可能な不明瞭な会話が小さく聞こえてくる。
扉のこちら側で聞き耳を立てているうちに、今まで穏やかだったポーターの胸の中が、急にざわめき出す。

―――彼らは自分たちの領域から、自分を追い出すことを相談しているのではないか?

職だけでなく、自分の首まで賭ける勢いで彼らを訪ねてきたのに、交渉する時間も持たずに放り出されてしまってはたまらなかった。
認めてしまった自分の性癖。
それを満足させてくれるのは、今は彼らしか居ないのだ。

身体の芯が痛いほど疼いている。
それを諌めるために、どうしても自分にはこの部屋が必要だった。


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