THE NIGHT PORTER(2)


「無駄に広い部屋ですね」
おもちゃをかかえた子供のように、ブラッドレイのサーベルを胸に抱いたまま、ロイ・マスタング中佐はレストルームの長椅子に腰を下ろした。
「そうかね?君とふたりで過ごす時間を、少し豪勢な場所で楽しみたいと思ったんだが」
「私は女性ではありませんよ?閣下」
長い脚を投げ出して、怠惰に座り込んでいるロイに向かって、ブラッドレイはポーターが残していった銀のワゴンの上から、
チーズのカナッペを摘んで差し出した。
「君の機嫌が悪いのは、空腹のせいなのかな?」
「夕食ならちゃんと済ませてきてます」
「執務室で流し込んだコーヒーとサンドイッチなんて、夕食のうちには入らないよ。さぁ、食べなさい」
きつく黴の香りを感じるほど近づけられた小さなカナッペを、ロイは伸ばした舌先だけで行儀悪く受け取った。
カリカリに焼いたパンと、もっちりと柔らかなカマンベールチーズを静かに租借しながら、ロイは長椅子から立ち上がり、
ブラッドレイの脇を抜けるようにして、リビングルームの中央に据えられた白い扉を開いた。
リビングから漏れる照明が、薄暗い扉の向こう側をぼんやりと浮かび上がらせる。
真っ先にロイを出迎えたのは、驚愕に目を見張らせた自分の顔だった。

「そこは洗面所だよ」
その幼いばかりの驚きを見透かしたようなブラッドレイの声が、リビングルームから聞こえてくる。
薄闇に慣れだした目でゆっくりと確かめてみれば、踏み入ったそこは、
大きな鏡が嵌め込まれた真珠色の洗面台が長々と据え付けられた洗面所だった。
そこから向かって左側は、清潔な真珠色にまとめられたバスルーム。
そして一方の右側は、扉を省いて洗面所まで自由に行き来できる、無闇に広いベッドルーム―――

「いい部屋だろう?気に入ってくれると思ったんだが・・・」
いつの間にか、ロイのすぐ後ろに立っていたブラッドレイが、笑みを含んだ声でそう囁いた。
「いえ、閣下。申し訳ありませんが、私は広い場所は苦手です」
「ほう、それは知らなかった」
「ひとりで手に余る場所など、面倒なだけです」
そういい終わらないうちに、ロイはくるりと身を翻し、露になった片方の目を細めて立っているブラッドレイを、真正面からから睨み付けた。
「ひとりで手に余る場所でも、ふたりなら丁度いいかも知れない。どうだね、この際君も身を固めてみる気は無いか?
私の伝で君の理想に適う女性を紹介させてもらうが?」

こんな場面でその発言はどこまでが本心なのか。
つかみ所のない表情を崩すことなく、ブラッドレイはきつい視線を自分に向けているロイの腰を引き寄せた。
「冗談なら聞く耳は持ちません。それに私はまだ若い・・・身を固めることなど考えたことはありません」
ここまでのこのこと着いてきたのだ。
今さら目の前の独裁者に何をされようが、抵抗をする気など無かったが、なぜかロイは無意識のうちに、
未だ手にしていた使い込まれたサーベルを、自分の身体と密着するブラッドレイとの間に割り込ませていた。
「それは残念だ。君と美しい花嫁が寄り添い合う姿は、一幅の絵のように印象的だろうに」
鞘に収められたままとはいえ、その身体に武器をあてられたということは、不忠を責める理由に充分に成りうる行為だった。
だが、ブラッドレイはそれには一言も触れはしなかった。

「そう言えば、君の親友はつい最近、素晴らしい花嫁を迎えたんじゃなかったのかな?」
怒りに騒ぎ立てることなく、逆にやさしい声は、ロイの意識を思いがけない深淵に向けて放り投げる。
「ヒューズにはヒューズの考えがあるように、私にも私なりの考えと予定があるのです、閣下」
心ならずも震えそうになる声を、理性をかき集めてなんとか噛み殺し、伏せていた睫毛を上げる。
そこには、先ほどからなんら変容を見せることの無い、薄い笑みを湛えたブラッドレイの顔があった。
「なるほど。一度君の考えをじっくりと聞かせて欲しいものだな」
「機会があればじっくりと聞いていただきますよ、閣下。取り敢えず暫くは、私は一人身で過ごすつもりです」
短く会話を繋ぐ間に、徐々に取り戻した余裕を見せ付けるつもりで、ロイは上目遣いの視線をブラッドレイに向けたのだが。
「ひとりでは渡れない砂漠も、ふたりでなら渡れるかも知れないのに・・・残念だ、ロイ・マスタング」

密着したふたつの身体の間から滑り落ちたサーベルが、洗面所の硬い床の上で派手な音をたてて、横たわる。

*****     *****     *****

キング・ブラッドレイとお相手の黒い髪の中佐の部屋へ、成り行きとは言え初日からついてった俺は、そのまま彼ら専用のポーターになった。
人目を忍んだ逢引にしては、随分と目立つ場所を選んだもんだって、アンタそう思ってるんだろう?
ところがそれがあの男の巧いやり方だったんだ。
場末の木賃宿を使おうが、相手の官舎に通おうが、誰も彼もに面が割れているあの男なら、
遅かれ早かれそこら中に噂が蔓延することになっただろう。
大総統府に相手を呼びつけるって手もあるだろうが、結局は中佐クラスでしかない、それも造作の整った若い将校を好き勝手に呼びつけるような、
そんな不埒な行為を快く思わない側近は山ほど居るだろうし、それになにより、大総統府から続くブラッドレイのプライベートスペースには、
彼が何よりも大切にしていると言う大総統夫人と息子が控えている。
人の口には戸を立てられないと言うが、徹底した利用客への守秘義務を従業員に課しているということを、密やかな売りにしているホテルでなら、
ある程度のスキャンダルの流出は避けられないにしても、それを最小限に抑えることは不可能じゃない。

創業年数が三桁を誇る由緒あるホテルとは言え、あの男にとっては一民間企業でしかない。
希代の独裁者の不興を買えば、どれほどの報復をされるか・・・。
彼らがホテル・サヴォイアを利用するのは、それこそ月に一度あるか無しの、そんな程度でしかなかったのだが、
ブラッドレイから直々の連絡が入る度に、俺たち従業員はピリピリと神経を尖らせて、粗相のないように、
控え室で彼らを出迎える為の予行演習を繰り返したものだった。

ああ、確かにブラッドレイ達の専属のポーターを、いつの間にか押し付けられてしまった俺は、自分の運の無さを嘆いたものだ。
大それた野望も持たず、市井の中で人並みの生活さえ営めればそれ以上を望むことも無かった凡庸な俺に、どうして神様は、
命をすり減らしかねない緊張の糸の上を歩かせようとするのかと。
オーバーに考えすぎ・・・だと?
でもアンタは、至近距離でブラッドレイの存在を感じたことがないから、そんなことが言えるんだ。
あれは恐ろしい男だった。
俺は今でも夢の中でうなされることがある。
けれど恐れながらもう一度、もう一夜と、彼らに出会うことを願ってしまう、そんな性質の悪い夢ではあったんですがね。

え…それがどんな夢かって?

それは、これからの話の中で追い追いと語らせてもらいますよ。


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