THE NIGHT PORTER (1)


性の欲望は、全てが直接的な交わりだけで満たされるわけではない。
各自がそれぞれ隠れた場所に固く根付いた嗜好を持ち、抱いた欲望をなんらかの形で満足させる手立てを探している。
多くの場合、人は自分の手に負える範囲でそれを満たし、他人に堂々と語れるものではないにしろ、
犯罪や人格破綻に陥ることなく、昼間の生活を何食わぬ顔で営んでいる。

だが、あの男は。
自分の嗜好を満足させる為に選んだ対象を間違えたのだ。



「おい、あんた・・・俺のとっときの話を聞きたくないか?お代はそのボトルの酒を、グラス一杯奢ってくれるだけでいいぜ」
その男が俺に声をかけてきたのは、セントラルの歓楽街の外れに店を構える、カウンターだけの小さなバーだった。
「どんな類の話なんだ?俺にだって好みの話題があるんだぜ?」
その夜の俺は、取引先との交渉を上手く運び、あと一押しで契約書にサインを貰えるという手応えを得て、
機嫌よくひとり酒を愉しんでいたのだった。
そんな心の余裕が、見知らぬ男を相手にする気まぐれを自分に許したのだろう。
薄汚れた顔は男の年齢を不詳のものにしていたが、シャープに描かれた顎の輪郭と首筋の張りが、
その男がまだ年若いのだということを物語っていた。
「えっ、どんなネタなのかって?ああ、そうだな。あんたの興味を惹く話題じゃなきゃ、
俺みたいな小汚い男に、グラス一杯の酒だって奢る価値なんてないからな」
「別にアンタが一杯の酒以下の価値しかないなんて、俺は言っちゃいないぜ?」
「いや、別に構わないさ。そんな風に言われることにはもう慣れた。むしろ、あんたは良心的な対応をしてくれてる方だ」
頭ごなしに怒鳴られて、追い払われなかったことが、その男には嬉しかったのだろう。
粗末なコートに包んだ貧弱な身体を、俺が座っている左横のスツールに納めて、俺の顔をのぞきこんできた。

「それはある男の話だ。この国の・・・いや、アメストリスだけじゃなく、その近隣の国々にまでその名が知れ渡っている男の話だ」
「ゴシップ記事の請け売りなら遠慮するよ」
「違う違う。どこの新聞社もこのネタを知ったなら記事にしたくてウズウズするだろうが、それでも涙を呑んで闇に葬るしかない類のものなんだ」
安いアルコールの匂いが染み付いた薄汚い男の言うことなど、鵜呑みにするほど馬鹿ではない。
だが宵の口と言ってもいい時間帯だったことと、ひとり酒の気安さで、俺は喋り続ける男をそのままにしておいた。

バーテンに声をかけて、もうひとつショットグラスと氷を注文する。
用意されたグラスにバーボンを注ぎ、男の前に置いてやると、礼を言うのもそこそこに男はそのグラスに手を伸ばし、
冷え切っているであろう身体の燃料とでも言うべく、一口で琥珀色の液体を腹に流し込んだのだった。
「―――ふーっ、はらわたに染み入る旨さだ。職を無くして、金も尽きて・・・今じゃ自前で呑める酒といえば、カストリくらいしかありませんからね。
スタンダードバーボンだって、今の俺にとっちゃ高級酒ですよ」
「へぇ、ちゃんと職に就いてた時もあったんだ」
「ははは、そりゃ俺だってちゃんとした職に就いていた時期もありましたよ。お天道さまとはなかなか顔を合わすことの出来ない仕事だったけど、
それを除けば至極まっとうな職場でしたよ。ホテル・サヴォイア・・・アンタだってご存知でしょう?
そう、セントラル随一の高級ホテル。俺はあそこでポーターをやってたんですよ」
「そりゃすごい。じゃあ著名人や軍のお偉いさん達の荷物を運んだこともあるんだ」
「夜間専門のポーターだったから、かなり面白いシーンも見ることが出来ましたよ」
もう一杯注いでやったバーボンの入ったグラスを、今度は掌に包み込んだまま、男は記憶の中を開いて覗き込んでいた。
「チップも込みでかなりの給金を貰ってました。こんなことになるって判っていりゃ、無駄な出費を控えて蓄えに回したんですけどね・・・
ま、今更言っても仕方ないことです。あの男相手にしくじった俺が悪かったんですよ」
そう言ってから、漸く男は二杯目のバーボンに口をつけた。

***** ***** *****

それは三年前の秋の夜更けのことだった。

五十代の半ばをとうに過ぎた、片方の視力を奪われながらも慧眼と噂される男は、
恐れるものなど何もないのだと言わんばかりの威風あたりを払う足取りで
セントラルの中でも一、ニのレベルを争うホテルのメインエントランスの扉をくぐり抜けた。
現在のアメストリスを創りあげたと言っても過言でない、この不世出の軍人を、深夜係のホテル従業員たちが恭しく頭を垂れて出迎える。

「お待ちしておりました。キング・ブラッドレイ大総統閣下」
歩きなれない者ならば、きっと足を取られてよろめくに違いない毛足の長い絨毯の上に、黒い軍靴が動きを止めたのを見計らい、
総支配人が出迎えの声をあげたのを合図にして、漸く全ての視線がブラッドレイの一身に集まった。
蒼い軍服の上に、薄手の黒いコートを羽織ったブラッドレイは、わずかに壮年期を過ぎた年齢を感じさせない厚みのある身体を、
軍人らしく伸ばされた背筋で誇示するように見せ付けながら、小柄な総支配人に向けて軽く会釈をして見せた。

「今夜はプライベートでここを使わせてもらう。たまには私もゆっくりとした時間を愉しみたい。
用があればこちらから連絡を入れるので、それ以外には部屋へは不必要に従業員を立ち入らせないように。・・・くれぐれも頼んだよ」
人当たりの良い笑みを口元に浮かべながら指示をしているが、この国ではブラッドレイの命令はどんな些細なことであろうと絶対だった。
「かしこまりました。それでは専用のコンセルジェをお付けして・・・」
「それも必要ない。私の呼び出しには全て君が対応してくれればいい」
「は・・・かしこまりました、閣下」
再び非礼を詫びるように深々と腰を折った総支配人の前を、ブラッドレイは大きな歩幅で通り過ぎて行こうとする。
不遜な足取りにもかかわらず、それが当たり前にしか見えないブラッドレイの背後を守るようにして、
彼よりも僅かに背の低い、黒い髪の若い軍人が唯一の従者として付き従っていく。
誰の目にも二十歳を過ぎてそこそこの齢にしか見えない、夜を纏ったような漆黒のパーツが目立つその青年は、
それでも意外なことに中佐という階級を示す徽章を軍服につけている。

軍上層部の主催するパーティーなどで使われることの多いこのホテルの、勝手を知った両者を足早に追って、
総支配人は導入したばかりのエレベーターロビーに回り、開閉ボタンを押した。
「お部屋までは私がご案内いたします」
「ああ。では、頼もうか」
さすがにその申し出を断ることはせずに、キング・ブラッドレイとその従者と思しき青年佐官は、
ゴトンという鈍い音に次いで、滑らかに口を開いた豪奢なエレベーターの扉の中へ足を踏み入れた。
白色の灯りに照らし出される狭い場所から、最上階のフロアーボタンに指を添えた支配人が目配せをすると、
扉が閉まる直前に、クロスを掛けた銀色のワゴンを押したポーターがひとり、乗り込んできた。

 ――――ゴトン。

再び重たい音を響かせ、四人の男を乗せて上昇しだした小さな個室の中には、沈黙だけが満ちる。
絶大な自信が為せる業なのか、それとも全幅の信頼を寄せているのか、
ブラッドレイは度々彼自身そのものに喩えられる愛用のサーベルをその身から離し、無言のまま、鞘ごと背後に控える青年に手渡した。
恭しくブラッドレイからサーベルを受け取った青年佐官の手は、軍に身を置く者にしてはいささか華奢で、皮膚の色も秀でた白さだったが、
ゆったりとした軍服の袖口から僅かに覗いた左腕の丸い骨の浮いた手首と、そこから続く手の甲の端に、
火傷の跡と思しき痣がひっそりと花開いていた。
その薄紅色に気づき、どういう理由かそれに視線を奪われてしまった若いポーターが、
ひゅうっと細く息を呑む音が、三度目の鈍い音に掻き消される。

結局、一度も停止することなく、エレベーターは最上階まで昇りきった。
近代的でありながら、王侯貴族の気分で過ごせるということが売り物のホテルが逸早く取り入れた水圧式の二台のエレベーターのうちの一台を、
半年毎の契約でエグゼクティブスイートの一室を貸切にしていたブラッドレイの為に直通仕様にしたのは、
彼の身分と権勢を考えれば当然の計らいであった。


「どうぞ、足元にお気をつけて・・・」
最上階に用意されたふたつのエグゼクティブスィートの一方へと続く廊下を、支配人が掌で指し示す。
切り出された白と黒の大理石をはめ込んだ市松模様の廊下を、一行は靴音とワゴンの音を残して進んで行く。
静物画や彫刻に飾られた長く続く白い壁。その突き当りを右側に折れると、漸く二重扉に守られた広い部屋へと辿り着いた。

「しばらくお待ちくださいませ」
鍵穴に差し込んだ金色の細いキーを回し、支配人は当然のように音を立てることなく、一枚目の扉を押し開く。
傅かれることに慣れた男は、開いたままの扉を支える手に一瞥を与えることなく、内扉のすぐ前まで歩み寄った。
ブラッドレイに寄り添う影のように、懐にサーベルを抱いた青年もそれに続く。
最後尾についたポーターに厚い外扉を預けてから、支配人は先ほどと同じ手馴れた所作で、二枚目の扉を開く。
開け放たれた扉の向こうに広がるのは、奥行きのある、長方形のリビングルームだった。

「お部屋のご案内の方は、いかがいたしましょう?」
引き際を間違えぬようにと、控えめな声で支配人がブラッドレイに問いかける。
「省いてくれて結構だ。この部屋の勝手は良く知っているからね」
その答えは予想の範囲だったのだろう、すかさず支配人は目線だけでポーターにテーブルセッティングに取り掛かるように合図を送った。
すかさず銀のワゴンの上から白いクロスが取り払われ、幾種類かの軽食とクーラーに入れられた赤と白のワイン、
取り皿やグラスの類が露わになる。
「ああ、今夜はそれもそのままにしてくれて構わない」
その口調はごく穏やかなものだった。
だが、さっさと出て行けと言わんばかりの冷えた空気を読めなくては、老舗ホテルの支配人など続けられるはずが無い。
「かしこまりました」
自分たちが退去したあとに、ブラッドレイが寛ぐ場所を整えるのが、彼と残される歳若い佐官だということに戸惑う気持ちを残しつつ、
それでも独裁者の不興を買わぬようにと、支配人とポーターはその日最後の深々と頭を垂れる時宜の挨拶を残し、
扉の外側へと姿を消した。



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