塩の柱(前編)


お世辞にも広いとは言えないその部屋の中には、日ごろ嗅ぎなれない甘い香りが漂っていた。


「今年もおまえが慰問の指揮を任されたのか」
「ええ。今年も大きな事件がこのまま起きることなく、ハロウィン当日を迎えることが出来りゃ万々歳なんすけどね」

不思議なことにここ数年、ハロウィンの時期になると、きな臭い事件がパタリと途絶えるということが続いていた。
情勢の不安定な東部には珍しい、美しい空白の季節。
それはお菓子をねだる子供だけでなく、全ての者が心の底から待ち望んでやまない、平和な時間だった。

「偶然なんでしょうけど、助かりますよ」

元々子供は好きな方だ。
同じ遊びを繰り返す無邪気な執拗さに苛立つこともあるけれど、偏った思想を力任せに押し通そうとするテロリスト達と
イタチごっこを繰り返すことを思えば、子供達との触れ合いは比べようもないほど健全で、微笑ましいものだ。

「こっちの袋がイーストシティ慈善病院用で、こっちのものが戦争遺児救済の家のもの…」

数個の大きな袋には、配る場所別に番号が記入されている。
秋の収穫を祝う祭の際に子供達に菓子を配る行事は、このところ、税金食いと囁かれている軍隊の人気回復の一環としての
慈善活動のひとつであったが、年々大きくなっていく袋を目にするたびに、ハボックの胸に小さな棘が刺さるのだ。

「明日は朝から夕方まで、子供たちと戦争ごっこですよ」

さすがにお化けに変装するほど趣向を凝らすわけではなかったが、大人に構ってもらうことに飢えている小さな子供の手が、
自分に向けて差し伸ばされるのを、無視することが出来ない性分のハボックだったからこそ、
このささやかな祭の指揮を摂る人物として適任だと判断されたのだろう。


「それは大変だな。健闘を祈る」

まあ、それは。
決して間違った判断では無いと、ロイも思う。

「子供の相手すんのは苦にならんのですが…」
「ん、なんだ?」

だが全て仕事だと割り切って没頭してしまうまで、時間がかかるのがたまに瑕なのだ。
特に問題なのは、自分と離れ離れになってしまう職務につく直前に、ハボックが見せる執着の深さだ。
それがほんの僅かな期間であるにも関わらず、彼は自分と会えないということを嘆いて憚らない。

「俺、明日は現場直行、直帰なんですよ」
「…それで?」

ハボックに背を向け、菓子の入った袋を一通り眺めていたロイの両肩に、クロスしたハボックの逞しい腕がかかる。

「重い」
「はいはい、すんませんね」

肩を巻くその腕が、文句を言われるほどロイに負担をかけていないことはハボック自身が一番良く知っているはずなのに、
それでも素直に謝る可愛らしさ。
それにほだされそうになる自分も、ハボックに負けず劣らず問題アリだと、ロイはひっそりと片方の唇の端を引き上げた。

「これも愛の重さだと思って、諦めてくださいよ。俺、アンタに明日一日会えないかもしんないんですよ?」
「たかが一日だろう。そんなことを一々愚痴ってたら、非番の時や出張中はどうなると言うんだ」

突き放すように言い返しても、ハボックはその腕に力を篭めようとはしない。
代わりに、ロイの背中に鼓動を伝え聞かせるように厚い胸を擦り寄せ、それと同時に筋張った大きな手でロイの両腕をそろりそろりと撫でさする。
そこに性的なものが含まれているのは間違いなかったが、ハボックはロイがシャワーを使い終わるまで、決して欲望を剥き出したりしなかった。

行儀のいい、貪欲な狗のしぐさ。
でも全ては隠せない。灼熱を秘めた指先がまだ冷たい肌に火をつけようと、無意識に腕以外の場所をさ迷い出す。

「そんなの状況が全然違うでしょーが。アンタも俺も、イーストシティに居て、仕事中で。それなのに会えないのは切ないっすよ」

そう言えばこの男は、傷の男の捜索を命じた時も、何かと理由をつけて司令部に顔を出していた。
一目顔を見ればそれでいい、一言会話を交わせればそれでいいと、健気なことを言うこの男のことを、勿論ロイも気に入り、全幅の信頼を寄せていた。

「ねえ、大佐。大佐は俺が居なくても…寂しくないんすか?」

甘えて懐く首筋に、かすかな電流が走る。
きつい煙草の香りが甘い菓子の香りに混じりあい、臭覚からも情欲を引き出そうとする。

「俺は寂しいです」

どんな顔をして、そんな言葉を紡いでいるのだろう。

「離せ、ハボック。暑苦しい」
「えー、そんな冷たいこと言わんで下さいよ」

ハボックが与えてくれる言葉が自分を酔わす前に、この腕の中から逃れなければその全てを信じてしまいそうになる。

「私は早くシャワーを浴びて、明日に備えて眠りたいのだよ」

そう応えれば、期待に喉を鳴らして甘い腕の檻を開け放たしてしまう若さも全て、自分のものだと勘違いしてしまいそうだった。

「ついてくるなよ?ただでさえここのシャワールームは狭いんだからな」

先に釘をさしておくのは、自分のほうがハボックに着いて行きそうになるからだ。
明日一日、会えないかもしれない彼に、心を残してしまいそうになるから。

「ちぇっ、やっぱ大佐冷てぇ…」

解かれた腕から逃れて、振り向くことなくシャワールームへ向かうロイに向けて、ハボックが物足りないと寂しげに訴える。

――――嘘つきめ。

明日になれば、戯れてくる子供達の相手に必死になって、自分のことなど忘れてしまうのだ。
どんな場であっても、自分の役割にピタリと嵌る事柄があれば、彼はそれに夢中になってしまう。

器用さには欠けるが、ひとつの事件にじっくりと取り組み、その中で最善の対処方法を見つけ出してくる彼の姿勢は、
普段の茫洋とした雰囲気を持つハボックからは、想像もつかないほど真摯で情熱的なものだった。
そして自分は、ハボックがそんな男であったからこそ、常に手元に置き、自分の背後に立つことを許したのだ。

だから彼が自分を忘れる数時間を寂しく思うのは、どう考えても間違っている。
彼の与えてくれる愛情に溺れてしまうことが、自分を弱くさせることを知りながら、それでも苛立つ気持ちを抑えつけることに四苦八苦するなど、
あってはならないことだとも思う。

「ガスのコックは捻ってあるのか?」
「部屋に辿り着いてすぐにバスを使えるようにしておきました」

声のする方へ振り返りたくなる衝動に耐えて、ロイはローチェスの上に置かれた白いバスローブを手に取った。


(2005.10.21 つづく)


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