塩の柱(後編)


頑なな白い背中は、ソープの香りに包まれていたが、隠し切れない獣の匂いをほんの少しだけ残していた。

高い鼻梁をこすりつけ、ハボックは密かに気に入っているその控えめな体臭を存分に楽しんだあとに、ゆっくりと右の肩甲骨の下にある、
小さなホクロに唇を下ろす。

「くすぐったいぞ」
「風呂場まで着いていかなかった褒美だと思って我慢してください」

いたたまれないむず痒さに、ハボックの腹の下の細い腰が非難めいて捻られる。
躾のなっていない犬を振り返ろうともがくロイの動きを制するように、ハボックは次に舌先を僅かにのぞかせて、揺らめく背骨を舐め上げた。

「…っ、ますます犬めいてきたな…」

美しく盛り上がる背骨を中心にして、なだらかに左右対称に広がっていくロイの背は、不思議なほど白く穢れないものだ。
それとは対照的に、そのしなやかな身体の前面は、銃創や火傷の跡に飾られて生々しく、
彼が戦場を生き抜いてきた軍人であるということを知らしめていた。
痛みさえ感じさせるその見事なコントラストが、ハボックのささやかな嗜虐の心を揺さぶる。

白熱灯に輝く柔らかな産毛を撫で付ける優しさで、歪みの少ない背骨を舐めていた舌をしまいこみ、その代わりに期待に震えるすべらかな肌に、
研いだ牙を甘噛みするように軽くたてる。

「い…ったい…ん」
「うそ、気持ちいいクセに。痛いくらいじゃねぇと、アンタ感じてくれないじゃないっすか」

じんわりと口中に広がるロイの汗には、一つまみの砂糖の甘さもなく、ただその肌の持つ透明な輝きがそれに似ていると思わせる石塩の、
舌を鋭く刺す味覚だけが含まれていた。

「も…いい加減に…あっ」

のけぞる背中に調子付いたのか、ハボックは立てた歯を一層柔らかい場所に移動させ、鬱血の跡を点々と残していく。
何者も汚すことが出来なかったロイの背中に、自分だけの愛らしい瑕を残す遊びに夢中になっていたハボックの荒削りな手管は、
それを施されている当のロイにとっても思いがけない悦びを手に入れることが出来る、堪らない一時だった。

「ん…ハボ…なんでここは…こん、なに…」

甘いのだろう。

部屋中に漂う菓子の匂いと、甘い愛撫。
全てがトロリと滴って舌を楽しませる、極上のハチミツにも例えても罰はあたらないであろう心地よさだ。

「気持ちいいっすか?」

けれど柔らかく牙を剥く男が背後で忍び笑いながら訊ねてくるのが、少しだけ口惜しい。
自分よりも片手の指の数だけ若い男は、彼自身が輝く黄金色の菓子のような程よい甘さで、自分を包み込もうとする。
どれほどきつく肌に牙を立てようと、どれほどきつくこの身体に楔を咬まそうとも、青い決意でその身を盾にする為に、自分の背後を護ろうと躍起になる。
そんなハボックの自分に対する執着が、すれっからしの自尊心をくすぐり、同時に底知れない恐怖を抱かせるのだ。

「気持…ち、いい…わけな…どな――――」
「…うそばっかり」

あっけなく見破られる嘘をついてまで、認めたくないものがあることを、背後で悪戯を繰り返している男は知っているだろうか。
もう自分は、この心地よい一時を失ってまともに生きてはいけないかも知れないと危惧する、そんな微妙な心の揺れを抱いているということを。




「まだ寝てても大丈夫ですよ」

滲んだ涙の分だけ重くなった瞼を開けると、見計らったようにハボックの声が落ちてきた。
だらしなくうつ伏せに寝そべったベッドの上は、乱れたシーツが白い渦を巻いて、ハボックの替わりにロイの身体を包んでいた。
薄いカーテン越しに入ってくる陽射しは、晩秋の朝の冷たい空気を裏切って、暖かいオレンジ色の光で狭い部屋を彩っている。

「今日はアンタ、午後勤だったでしょ?」
「…ああ」

みっともなく枯れた声で返事をすると、何を思い出したのかハボックは頬を赤らめて視線を泳がせる。
その様子が可笑しくて、ロイはくつくつと肩を竦めて笑った。

部屋の中は相変わらず大量の菓子の匂いが立ちこめている。
それは秋晴れの乾いた空気に甘く溶け、ロイとハボックの皮膚に、同じ移り香を残していく。

「それじゃ、俺はこれから慈善病院に直で回ってきます。テーブルの上に朝飯用意してるんで、食ってってください」

広い肩に大きな菓子入りの袋を軽々と担ぎながら、ハボックはロイにあれこれと支持を出す。
サーバーにセットされたコーヒーのこと、冷蔵庫に入っている新しいジャムのこと。

「判った…。せいぜい子供たちと面白おかしく遊んできたまえ」
「何言ってんですか。子供達の相手すんのって、そんじょそこらのテロリストの相手をするより大変なんすよ?」

口をへの字に曲げながら、zippoのフリントを転がして、ハボックは煙草に火を点す。
途端に漂う微かなオイルと、苦いタールの匂いが、昨夜の甘さを消し去っていく。

「ああ、行って来い。途中で菓子をつまみ食いなんてするんじゃないぞ」
「俺は甘党じゃないから、そんなこと頼まれたってしませんよ。なんでしたら大佐、おひとついかがですか?」
「いや、遠慮するよ」
「余るほどあるんすよ?」
「…もう腹いっぱいだ」

――――Trick or Treat!

程よい甘さの、口どけの良い、私だけのお菓子を。

「もう悪戯する気力もないほど、味合わせてもらった」

硬い男の身体に沁み込むほど、真摯な甘味を貪ったのだから、今日一日、おまえ無しでもなんとか過ごせそうだ。

「早く行ってこい。子供たちが待っている」
「アイ・サー。ニ度寝だけはしないで下さいね」

そう言いながら、一人部屋に置き去りにするロイに心を残しつつ、ハボックは扉に手を掛ける。
重い扉が細く開いた途端に、冷たい風が部屋の中に忍び込む。

「寒く――――」

ないかと、気遣う声に応えること無く、黒い髪をかきあげている愛しい男は、ハボックに背を向けたまま、キッチンの方へと消えていった。


振り返ることなど、出来なかった。
お菓子の入った袋を担いだその背中を見送ってしまえば、自分はきっと、暫くの間固まったままでハボックの影を追い続けることになるだろう。

塩の柱のように、きっと、ずっと。

「馬鹿馬鹿しい」

今生の別れでもあるまいし。
今の今まで、すぐ傍にあった温もりが消えた部屋でひとり、ロイは冷蔵庫から取り出したベリージャムを、匙に掬って舌に乗せた。

おまえの方が――――ずっと甘い。

そんなふざけた言葉を、呟きながら。


(2005.10.29 終了)


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