GIFT (1)


「結構揺れますね」

カーキ色に塗装された山岳用ジープの窓から見える景色は、糸杉が生い茂る森に入ってからかなりの時間が過ぎたと思われるのに、細い緑の葉群はま
だまだ終わる気配を見せなかった。
果たしてここに入ってからどれくらいの時間が過ぎたのだろう。
「ところで今何時っすかねぇ?」
「さあな」
珍しくバックシートに自分と並んで座っている上司は、これもまた珍しく黙り込んだままだった。
ディーゼルエンジンの音と、硬い土を巻き上げて、無垢な山肌に轍と共に置き去りにされていくタイヤの軋む音。
普通であれば充分にうるさいはずのそれらの音も、高い杉に囲まれた薄暗い森の中にあっという間に飲み込まれて行く。
「まだ着かないんすか?」
「もうすぐだろう」
「……あ、そうっすか」
生きとし生ける者の気配を、全て地中に追い込んでいくかのようなこの森を支配する一種独特の沈黙は、初めてそれを体験するハボックに威圧感だけ
を押し付けてくる。
ついに耐え切れず、車窓をぼんやりと眺めていたロイに声をかけたものの、けんもほろろにあしらわれ、先ほど以上の気まずい静けさに車内は満たされ
てしまった。
(あー、もうなんなんだよ、ここは……)
大小の美しい湖水を有していることで有名な東部国定公園に隣接した、標高千メートル余りのこの低い山は軍の所有地で、民間人の立ち入りは当たり
前のように禁止されていたが、物々しいことに彼らを乗せたこのジープが山道に差し掛かる直前に、軍人であるハボックの身からも腕時計が取り上げら
れ、懐に何気なく放り込んであったコンパスは容赦なく没収されていた。
すっかり軽くなった手首には白い時計のベルトの跡こそ残ってはいたが、勿論そこから正確な時間を計ることは不可能だ。
けれどこの山に入ってから小一時間は経過していることだろう。
先ほどからチラチラとバックミラーを伺い見ている山岳部隊所属の将校が座る運転席を一瞥したあとに、ハボックはロイに倣って再び車窓に目をやっ
た。
天を目指して鬱蒼と伸びた無数の糸杉は、人の手を拒んで既に20m以上の高さに育っている。
霞がかったぼんやりとした青空をあらかた隠す勢いの常緑の枝々を、湖水を渡って吹き上がってきた風がさわさわと揺らして過ぎ去っていく。
だがその清涼たる風は、この湿った森の中にまでは届かない。
地表から杉の幹までを這い覆う苔はしっとりと水分を含んで、色褪せたエニシダの葉陰になった場所は黒々とした生命力がひしめき合っている。
そしてその漆黒から少し離れた場所に群生する野生の桜草の細い茎たちは、丹精に描かれた絵画のようにピクリとも揺れることはない。
地面に体積した無数の褐色の葉を分けて、可憐な姿をのぞかせている白い二輪草はそう簡単に見つけることが出来ない珍しい花の一種だったが、短
時間の間に何度も繰り返し目にしてしまうと、そのたおやかな花の存在価値さえ薄れてしまう。

――――そう、こう何度も同じ場所を走られちゃ、逆に変な勘繰りをしたくなっちまうんだぜ…?

薄い唇の口角を皮肉に上げて、ハボックは車窓を通り過ぎて行く苔むした大きな石の姿を僅かな間目で追ってから、再び杉の枝から覗く小さな空を見上
げた。
なだらかなこの丘陵地の総面積は、軍の差し金が入っている為なのか地図の上からは正しいデータを拾うことは出来なかった。
けれど、この不可思議な沈黙が続く森の長さは異常なものだったし、時折目にする歩哨の姿ひとつとっても、単なる軍所有地にしては彼らの配置間隔は
あまりにも短すぎた。
「ふぅっ…まだ着かないんすか?」
誰に聞かせる訳でもなく、小さな呟きをこぼしたあとにハボックはその青い瞳でバックミラーを覗き見る。
もう少し進めば杉木立が割れ、いびつな十字路が現れることだろう。

――――今度は右に進むか、左に折れるか。ブレダがここに居ればアイツから1000センズむしり取ってやれるのに…

ハボックの目を撹乱させるのが目的なのか、ジープは微妙にルートを換えながら丘陵地をクルクルと走り回っていた。
「俺、二輪草の群生を同じ山で三度以上見たの、今回が初めてですよ」
あからさまな仕打ちに対して嫌味を込めてそう言ってから、隣に座るロイを流し見れば、楽しそうに細めた黒い瞳の視線とぶつかった。

――――やっぱり大佐も気づいてたんだ。

サボリ癖があるとはいえ、決して持て余すような優雅な時間を過ごす暇などない身でありながら、山道をさまよう時間的なロスを咎めようとしない彼の真
意は、残念ながらハボックには判らなかった。
「大佐は確か以前にも一度、こちらに来られたことがありましたよね?」
「ああ、二年ほど前だったかな。あの時は護衛にはホークアイ中尉を就けていたな、確か」
「その時もさぞや見事な二輪草の群生を見ることが出来たんでしょう?」
「いや、あの時は既に初夏と言ってもいい季節だったから、エニシダの花や釣鐘草の花が群れを成していた」
「へぇ、それもさぞ見応えがあったことでしょうね」
女々しいとは思いつつ、ホークアイと自分の処遇の違いを見つけだそうと振った話題の中で、春の半ばの短い間しか咲くことのない、妖精のような白い
花の姿をロイと共に目にした幸運を知って、お手軽にもハボックの目じりが下がる。
「今度は何をにやけているんだ?」
「いや、別に……あっ、それよりまだ到着しないんすか?」
からかうようにロイに顔を覗き込まれ、ハボックの頬に血が上る。
それをごまかす為にしどろもどろになりながら、再び同じ問いかけをしたハボックが次に目にしたのは、先ほどとは打って変わった冷徹な司令官の表情
を纏ったロイの白い面だった。
「もう少しだ…ああ、君。その路を右に」
低く落ち着いた声が、ハンドルを握った将校に短い指示を与える。
「アイ・サー」
歯切れのよい、簡潔な返答の声につられて、ハボックは今までロイの姿を追いかけていた視線を前方へと切り替えた。
「あ…」
「ホラ、すぐ着くぞ、少尉」
ハボックの耳にだけ届くように囁かれたロイの声が終わらぬうちに、彼らを乗せたジープは高い杉が途切れた場所にある十字路に降り注ぐ、金色の光
の中へ飛び込んでいた。
「もう少し走れば左手に集落の入り口の在りかを示す目印が現れる。見逃すなよ、ハボック」
ほんの一瞬だけの、光の洪水。その中で見失ったロイの姿を再び見つけ出したハボックは、またもや普段通りの食えない表情に戻ってしまった上司の
言いつけを守るべく、今度はその青い瞳で左前方を見据えた。

見覚えのない細い山道を進むジープは、今までと違って激しく車体を揺らしていた。
その揺れの為にに軽くぶれる視界と、タイヤに弾き飛ばされた石礫が窓をたたく音。それらを全て無視して、ハボックはただひたすらロイから教えられた
目印を探す。
気がつけば終わりなどないように思われた糸杉の木立は消え、奇岩とも言うべき巨石郡がオブジェのように置かれた荒涼たる山道が、暗い森に変わっ
てジープを導いていた。
ゴツゴツと岩肌を所々に見せている地表を覆う唯一のものは、貧弱なヒースの茂み。
単調な風景にも関わらずこの開けた山道は、先ほどの薄暗い、けれど生命力に溢れかえらんばかりの糸杉の森とくらべるまでもなく、どこまでも気を滅
入らせる暗澹たる空気に覆われていた。

――――なんだ、ここは…?

ゾクゾクとした寒気が、ゆっくりとハボックの背筋を這い上がってくる。
氷水に長らく漬けられていた手に、体中をまさぐられるような感覚をハボックは息を呑んでやり過ごす。
同じ山中に在るというにも関わらず、通り過ぎてきた糸杉の森と、未だ花を咲かせた姿を見ることのないヒースに覆われた岩肌は、あまりにも両極端な
風景だ。
「大佐…ここはまるで――――」
「自然を装ってはいるが、軍の手が入った場所なんだよ」
善良で素朴な人々が怖気づき、悪魔が住まう場所と忌み嫌うように手が加えられた場所は、その悪意を読み取った者さえも踏み入ることを拒むように、
とめどなく瘴気を吹き上げていた。
「こんな…あんまりじゃないっすか…!こんなトコで…」
生きたまま葬られたように、ひっそりと日々の生活を営む人々が居るなんて。
そしてそれらが、志半ばでその膝を折り軍から離脱したとは言え、ハボックの隣に座る『焔の錬金術師』と同じイシュヴァール前線で戦功をあげた、元国
家錬金術師たちだというのは一体どういうことなのか。

「ひでぇ…」
持ち前の勘の良さで、元国家錬金術師たちが放り込まれた見えざる牢獄を見つけ出したハボックの翳む瞳に、まだ遠く。
「あそこだよ、少尉」

整えられた白い指先が示したものは、枯れかけたヒースが覆う岩盤とはおよそ不釣合いな、虚空に聳え立つレッドウッドの巨木だった。


(2006.03.26 つづく)


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