ミセス・リジィのクッキー(後編)(166 脱出)


一階の左奥の部屋が、マスタング家のメインリビングだった。
ほぼ正方形に近い広い居間には、あとから増築したらしいサンルームが続き部屋として設置され、そのガラス張りの壁面からは、
スイカズラの一群が風に揺られて白く波うつ様がよく見通せた。
細長いサンルームに置かれている家具は、楡の古木で作られたと思しき褐色の腰掛とカフェテーブルの一組だけで、
シノワズリ調のその小さなテーブルの上には、庭に咲いたスイカズラの一輪を挿した小さな花瓶が置かれている。

「ふーん…」
「何?」

リビングに足を踏み入れた途端に、その小さなサンルームに興味深げな視線を投げていたヒューズは、一通り見回してニヤニヤと相好を崩した。

「いやー、おまえのお袋さんのことを考えてたんだよ」
「俺の?」
「ああ。ズバリ、率直に言う。おまえのお袋さん、かなりの美人だったんだろ?」

グラスの奥で軽くウィンクをしながら、なんら根拠の無い推理を口にして、ヒューズはソファーにどっかりと腰を下ろした。
その乱暴な扱いにもかかわらず、マホガニー素材のツイストレッグは、華奢な見た目を裏切ってびくともせずに、長身の少年の身体を受け止める。
ジャコビアン様式に統一された褐色の家具がバランスよく配置されたリビングは、まるでアンティークショップの展示室を見ているようで、
十数年をこの家で過ごしてきたと言うのに、不思議なほど懐かしさを感じることはなかった。
けれど、決して拒まれているとも思わない。
よそよそしいのは最初からお互い様だった。

「あの椅子に座って春、夏、秋は季節の花を愛で、冬は雪景色を眺める姿がさまになるのは、それ相応の見た目をしてねーとなあ」

自分の家に戻ってきたというのに、まだ小さな荷物を置くこともせず、突っ立ったままだったロイの膝を砕けさせたのは、
そんなヒューズの間の抜けた発言だった。
決して異性経験が乏しいわけではなく、それどころかどちらかと言うと"緩め"な男の、ロマン溢れる言葉に目を剥いているロイに、
気づいているのかいないのか、勝手な考察と憶測はまだ続いていた。

「ま、おまえの顔見りゃ、大体の予想はつくけどさ…」

―――他は兎も角として、顔だけはいいからな。
余計な一言まで丁寧に付け足して、ヒューズは自分が座っているソファーの背面に位置するサンルームを、振り返って見た。

「それに、あそこに座っているのが儚げな美女だったら、それこそドンピシャすぎて、この居間には飾る絵なんて必要無くなるだろーよ」

捻った背中をロイに見せつけながら、背もたれに手を置いて、その上に顎を乗せた怠惰なスタイルで、ヒューズは"ロマン"の根拠を
淡々と明かしていった。

その単純な少年の願望が、真理を暴く。

母が愛したこの家は、彼女が許したものしか受け入れようとしないのだ。
彼女が天に召されても尚、その想いが重く圧し掛かる場所は、そこに立つ者を容赦なく選別し、いらないものを悉くはねつける。
絵のように美しい場所を、穢されることのないように。
彼女が愛したもの達を、踏みにじることのないように。

「確かに母は美しい人だったよ。でも、残念ながら俺は父親の方にそっくりなんだ」

―――それはなんという情念だろう。


漸く憑き物が落ちたように、ロイは傍にあった椅子を引き寄せて、サンルームがよく見通せる位置に置きなおしてからそこに腰を下ろした。
新緑に良く映えるスイカズラの白い花びらは、先ほどとなんら変わることのない清楚さで、風に弄られ揺れている。
その波頭のような一群をじっと眺めていると、時折その細長い花びらが白い指に見えて、一定のリズムでゆれている様子も
"おいで、おいで"と自分を手招きしているのではないかと錯覚してしまいそうだった。

どれほどの時間をふたりは沈黙に抱かれて過ごしていたのだろうか。
甘いバニラとカカオの芳醇な香りがふたりの間に割って入ってこなければ、まだ暫くはそんな時間が続いていたかもしれなかった。

「失礼いたします。ロイさま、お飲み物とお菓子をお持ちしました」

低く落ち着いた声も、物音ひとつたてない身のこなしも、それは昔から変わらない老女の特徴で、今さら驚くこともないはずなのに、
小さく息を呑んで振り向いたヒューズにつられ、ロイも背筋を指でなぞられた時のように、肩をピクリと跳ね上げた。

「ああ、ありがとう…ミセス・リジィ」

命の気配さえ乏しい、この世とあの世の境目が曖昧な場所に彼女は立っていた。
彼女が手にした銀のトレイも、その上に乗せられたさまざまな形のクッキーも。
そして、湯気の上がるコーヒーでさえも、全てが霞で作られているのではないかと疑ってしまうほど、空虚で寒々しい。

「たんと召し上がってくださいね。このクッキーはわたくしが午前中に焼いたものですのよ」

老いの目立つ手に、クッキーが盛られた皿を差し出されて。

「そう。気を使わせて悪かったね」

感謝する心どころか、礼のひとつもロイは彼女に返すことが出来なかった。

「いいんですよ。わたくしはロイさまがお戻りになられたことが、一番嬉しいのですから」

そんな自分の寂しさと悔しさは、一生彼女には伝わるまい。

「ミセス・リジィ、僕がこの家に居ることがそんなに嬉しい?」

いきなり口調を変えたロイに、コーヒーカップに手を伸ばそうとしたヒューズの手が止まる。

「ええ、ええ、勿論ですよ。こんなに大きくなられて…ますます旦那様に似てこられて…」

しげしげとロイの顔を見つめていた老女は、その濁ったガラス玉のような目を眇めて微かな微笑を零した。

「先ほどロイさまをお迎えした時も、旦那様が戻ってこられたのではないかと思ってしまいましたのよ?」
「そう…」

目尻の皴に溜まった涙の雫を取り出したハンカチで押さえている老女に、ロイは短い相槌を打ってから目の前に置かれたクッキーの一枚を取り上げた。

「これ、なんて言ったかな。母さんがよく作っていた…」
「アイスボックス・クッキーですよ。どうぞ召し上がって」

勧められて、バニラ生地とココア生地が等分に織り込まれた白黒二色のクッキーを、口に運んで噛み締める。
口に含んだ途端に、ホロリと崩れて溶けていくクッキーの味は、庭で揺れていた手の持ち主が、むかしむかしに作ったものと全く同じで、
心底ロイの肝を冷えさせた。


「何か御用がありましたら、遠慮なくお呼びくださいね。すぐに参りますから」

そう言い置いて、ミセス・リジィは居間を後にした。
彼女が作ったクッキーを頬張りながら目線だけで挨拶を済ませたヒューズには、ほんの一瞬目を留めただけで、
老女の関心の全てはロイに向いていた。

「遠慮なくお呼び下さいって言っても、こんなに広い家ン中じゃあな…」

よほど腹が空いていたのか、皿の上のクッキーをあらかた平らげたあとに、ヒューズは黙りこくっているロイに声をかけた。
その質問が計算づくなのか、それとも他意の無い疑問なのか、それは判らない。
どちらにしろ、無心にクッキーを頬張っている姿からは想像できないほど、ヒューズはいつも物事の核心をつくことに長けていた。
もしや心の中を覗かれているのではないか、なんて。
そんな馬鹿げた考えを振り払い、ロイはヒューズの問に答を出した。

「大丈夫さ」

母を二度と悲しませないために、彼女は常に見張っているのだ。
妻を捨ててこの家をあとにした黒い髪の男に似た少年が、もう二度と勝手に出て行かないように。
だから。

「彼女は俺が呼べばすぐにやって来る」


「あー、食った、食った。ごちそーさんでした」

結局ロイが口にしたクッキーは、老女の前で儀礼的に摘んだ一枚だけだった。
残り全てのクッキーを腹に収めて、仕上げに温くなったコーヒーを流し込んだヒューズは、満足げに右腕を振り上げて伸びをしたあとに、
再び腰掛けていたソファーのツイストレッグを揺らして勢い良く立ち上がった。

「腹が満ちたら、好奇心まで満たされちまった。なぁローイ、帰ろうぜ」
「は?」

最後まで気が進まなかった自分を突っついてこの家に乗りこんできた男の、唐突過ぎる豹変を目の当たりにして、ロイは素っ頓狂な声をあげた。

「なんだよ、変な声出して」
「急に、どうして?」
「んー?気が変わっちまった。ばーさんの手ぇ煩わすこともねーかなって思ってさ。それにここからだったら、寮まで歩いて帰ったって
そう大して時間かかんねぇし」

そう言い終わらないうちに、ヒューズは居間の出入り口に向かって歩きだした。
あれほど興味を示していた、沈黙と光が満ちたサンルームには目もくれず。

「一泊するって外出届出してるんだぞ。今日の夜と明日の飯、どうするんだ?」
「そんなもん、どうにでも出来るって」

ひらひらと手を振りながら、それでも足を止めることをしなかったヒューズは、すでに居間の重い扉を押し開こうとしていた。

「今日は寮に戻るわ」

―――おまえはどうする?

そう無言で語りかけてくる広い背中に、ロイは薄く微笑んだ。


(2005.04.08)


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