ミセス・リジィのクッキー(前編)(166 脱出)


「よーし、決まったな」

いつの間にかそういうことになっていた。
いささか強引なやり口に見えることも少なくなかったが、この男が自分のやりたいことを主張してそれが実行に移せなかったことは、
この士官学校で過ごした二年間を思い出す限り、皆無ではなかっただろうか。

「別にいいけど、そんなに面白い場所じゃないぜ」
「そんなの、行ってみなけりゃ判らないさ」

バケモノ並みだと言われている優秀な頭脳と、教官受けする指導力、それに加えて学友たちの信頼と友愛を得る柔軟な思考、それらをバランス良く
『見せる』コツを知っている男の持論はこうだった。

「面白いかどうかは、俺が決めることだし?」



ロイがこの家に戻るのは、中央士官学校に籍を置くようになってから初めてのことだった。
改めて言うまでもなく、そのことはヒューズも了解していた。
帰らない理由をしつこく訊ねることはしなかったが、ロイが生まれ育ったこの場所にあまり愛着を持っていないということは彼は薄々気づいているだろう。

「家って言うより、屋敷と言った方がいいんじゃねーの?」
「ただ広いというだけだ。管理する身には不便なだけさ」
「その割には綺麗に整えられてるよな。さっきのばあさんがひとりで管理してるんだろ?」

最上級生となる学年度を迎える直前の、短い夏の休暇にふらりと戻ってきたロイと、その学友と言う名目で彼の生家についてきたヒューズを
迎えてくれたのは、キッチリと灰色の髪を結い上げて、時代遅れな形の濃いブラウンのドレスを身に着けた小柄な老婦人だった。
錆のひとつも浮いていない、鈍色の門扉までやってきてふたりを出迎えてくれた彼女の足元を、夏の昼下がりという時間帯にもかかわらず、
しげしげと見つめてしまったというヒューズの耳打ちには、ロイもなるほどと頷かざるを得なかった。
この静かすぎる家を顧みることの無かった二年の間、ロイは彼女のことも思い出すことはなかった。
けれど、自分が生まれる前から、乳母日傘で育った母親のお目付け役として、この家に仕えてくれていた彼女に対して、
それが失礼であるとロイは思ってはいない。
きっと今では、誰も彼女のことを思い出すことはないだろう。

「ある意味ここは彼女の家だからな。彼女が管理するのは当たり前のことだ」
「あらら〜、他人事みたいに。それでもこの家の名義人はおまえなんだろ?」
「実質的には今は俺の後見人の伯父のもの…ってとこだろうな」

ツヤツヤと磨きこまれた廊下を、ロイとヒューズは並んで歩いていく。
その廊下を飾る細長い窓からは新緑に彩られた夏木立が見え、重なり合う葉叢を潜り抜けた光の束が何本も、彼らの進んで行く道筋に落ちていた。
その眩さの中にふわふわと舞っている塵たちでさえ、どこか幻想的に見えてしまうのは、多分。

「時間が止まってるみたいだな」
「…うん」

この家の全ての扉が、過去に向けてしか開かれていないからに違いない。


実際のところ、ロイはこの家を自分の家だと認識していなかった。
過去において父と母と自分、それに数人の使用人が住んでいたこの家は、ロイの母を溺愛していた祖父が用意したものだった。
元からして、娘の結婚を認めるつもりなど無かった祖父だったが、最終的に一途に思いつめた彼女が、どこの馬の骨とも判らない東の血を色濃くひく
占星術師と共に、遠くへ飛び立って行くのではないかという、恐ろしい疑念に打ち勝つことは出来なかった。
娘の持つ小さな羽根が、二度と羽ばたくことのないように。
それだけの為に、祖父はこの馬鹿げた広さの家を彼えらに与えたのだった。
(本当にあのじーさんは、どうしようもない…)
そんな、娘離れに失敗した父親の健気な行いは、哀れなほどに滑稽で、暑苦しい愛の押し付けを糾弾する気さえ起こらない。

「元々が父母名義のものでなく、祖父が勝手に購入した家なんだ。彼の遺言書には自分が死んだ後はこの家を母に譲ると書いてあったが、
あてにしていたその娘が、自分より先に死んでしまうなんて思いもしなかったんだろう」

娘が逝った後にも、書き換えられることのなかった遺言書には、彼の孫の名前はただの一文も記されてはいなかった。
ここは最初から最後まで母を囲い込むことが目的の鳥篭だったのだから、それも仕方あるまい。

「父親ってーのは、娘には弱いっていうからなあ。お前のおふくろさんも、苦しくなるぐらい愛されまくってたんだろうさ」
「ああ」

彼女は少なくとも、その一生をかけて愛した夫と、この家で暮らした数年間は幸せだったのだと思う。
けれど、その娘のつがいとなった雄鳥はどうだったのか――――

それを考えることを、ロイは無意識のうちに避けていた。


(2005.04.01 続く)


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