指  先(ヒューロイ)



「なぁ、ロイ。俺は自分の娘があんなに可愛いもんだなんて思わなかったよ。エリシアはきっと気立てのいい娘になるぜ」
「ああ、それは良かったな。だが…同じセリフを一日に12回も聞かされた私の身にもなってくれ」
「なに、12回だと?そりゃ少ないくらいだぞ」

2歳になる可愛い盛りの娘と、美しく聡明な奥方にベタ惚れのこの男は、時と場所を弁えることなく自分の幸せを吹聴する。
乾いた白いシーツの上で、いつもは青い軍服に守られた、シーツと同じほどに白い裸体を拓かせている今も、それに変りはない。
守るべき大切な者たちに囲まれた彼の指先は、いつも温かい。

「ん…ヒューズ…」

その温かな指先が、枕に擦り付けられた黒髪を優しく梳いて行く。
深く重なり合った唇がたてる湿った音に次いで、ヒューズが語る言葉たちは、ピロートークとしては最低の部類に入るものだろう。

「愛する妻と娘。士官学校時代から続くおまえとの友情と遣り甲斐のある仕事。それを手にした俺の人生は薔薇色だ」

それなのにベッドの軋む音に重なるヒューズの声が、まるで護符のようにロイの身体を包み込もうとする。
友情という口幅ったい表現が、身体の奥が引き攣れるような思いでヒューズの肉を噛む自分に、相応しいものかは判らない。
ただこの髪に絡む指の感触が、何物にも代え難いほど心地よいということだけが事実だ。

「おまえも沢山見つけろよ…大事なもんをよ」

掠れた語尾が吐息となって、ロイの耳に落される。
柔らかい耳朶を食み、ゆっくりと這いながら首筋に移動する唇の愛撫は、もどかしいくらいに優しいくせに、的確にロイの内側の熱を煽って行く。
だが自分は、この指が命ある者たちに向けて、黒い引き金をひいた過去を知っている。
この唇が、焦土の上で噛み破られ、拭われることのない血を滲ませた過去を知っている。
そして、この多情な男が灰に塗れた大地を見つめる横で、右手を翳したまま動けなかった自分が何を、したのかも。

「噛んでくれ…きつく…」

緩やかにすべるヒューズの唇が、堅く浮き出た鎖骨にたどり着いたとき、記憶の瑕に赤く染まる意識が、労りよりも激しいものを求めて
我が侭な要求をつきつける。

「痕、つくぜ…?」
「かまわない…っ、あぁっ!」

尖った犬歯を肌にきつくたてられて、ロイは大きく身体を撓らせた。
この男に優しく抱かれることを許された存在は、他にある。あの記憶を彼と共有する自分には、取って代わることなど出来ない存在が。



漸く静かになったベッドの上は、散々に乱れていた。
だが、青い匂いが染み付いた皺くちゃのシーツに、申し訳程度に包まれた白い身体は、それ以上に酷い有り様だ。
いたるところに付けられた鬱血。その中でも飛びぬけて目を惹くところどころに咲いた赤味は、皮膚が裂けて血が滲んだ痕だ。

「首まできちんと釦を嵌めた軍服の下に、こんな痕を残した体が包まっているのかと思うとたまんねぇな。明日は俺、いたる所で発情しそうだ」
「馬鹿野郎。やりすぎだ…おまえ」

乾いた喉を意地でこじ開けてヒューズを罵るロイの声は、案の定ひどく嗄れている。
それを心配したのか、ヒューズはロイの長い首の中央にある突起に、再びあの哀しいほどに温かな指先をあてた。
だるく弛緩していたはずの身体が、その体温にピクリと震える。
柔らかくほどけた粘膜をきつく擦りあげられながら、乱暴に唇に差し込まれた同じこの指先から、微かな薬莢の香りがしたのだと言えば、
この男はどんな顔をするのだろうか。

きっと自分は、何があってもそんなことを彼に告げたりはしないだろうけれど。

「すまねぇな。久しぶりだったうえに、おまえから酷くしてくれってリクエストがあったから、手加減できなくてよ」
「ものには限度があるんだ。これじゃ暫くデートも出来ないじゃないか」
「ああ、全くだ。俺はおまえだけでなく、ご婦人方の恨みもかいそうだな」

ほんの少し照れたように笑うヒューズの細められた茶色の瞳が、次の瞬間にはロイの漆黒の瞳を真摯に覗き込んでいた。

「で、そのご婦人方の中に…おまえを支えてくれるいい女はいないのか?」

からかう色が微塵も伺えないその声の問いかけに、ロイの胸が微かに軋んだ。

「今のところ、美女に目移りする楽しさを堪能しているところだよ。それに私にはまだまだやらなければならない事が山積みだ。
身を固めるつもりはない。」
「すぐ傍におまえさんの事を理解してくれる存在があれば、仕事もはかどるかもしれねぇぞ?」
「逆も然り、だ。大切なものが増えれば、その分弱みも増える…さぁ、私はもう寝るぞ。誰かさんのせいで疲労困憊だ」

瞼を伏せて長い睫毛で表情を隠したロイは、吐息まじりの就寝の挨拶を残し、ヒューズに背を向けた。
切なく眇められたヒューズの目を、見返すこともせずに。



こんな世の中だからこそ、散りばめられた沢山の愛情を守り抜くことを選んだヒューズを、自分は責めたりはしない。
いつの日か娶るかもしれない、自分の横に寄り添う可憐な人影ゆえに、ヒューズがこの身体に手を伸ばすことがなくなったとしても、
彼はいつでも友情と忠誠という矛盾したものを、笑顔と共に自分へ差し出してくれるに違いない。
だからこそ。
もし理想に破れても、野心の志半ばで膝をついたとしても。
もう一度会いたいと願う者たちがいれば、もう一度抱き締めたいと想う者たちがいれば、きっと生きて行けるはずだと、
あの優しい指先は自分の肌に語りかけるのだ。

だが、今ここにある現実はどうだ?
欲しいと願うものは壮大でも、欲しいと願う者は唯一なのだ。
そして自分にはもう、それを告げることも出来ないというのに。

「相容れないな…ヒューズ」

熱を持ち出した鎖骨の噛み痕に軽く手をやり、小さな呟きを残して。


ロイは静かに目を閉じた。



(2003.12.12 初出)


←短編頁  



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送