欲望の翼(前編)


なぜその時、俺はあいつの傍に居なかったのか。
いや、もっと正確に言えば傍に行けなかったのか。
今なら嫌という程その理由がよく判る。それはあのとき俺がアイツに対して抱いていた、欲望のかたちゆえだったのだと。


誰もあえて口に出しては言わなかったけれど、皆が皆待ち望んでいた悲惨な戦いの終結は拍子抜けするほどあっけなかった。
『最後のダリハ地区が墜ちた』
最後。文字通りそれが最後のイシュヴァールの小さな抵抗だったのだ。
『イシュヴァール全区、完全に国軍の管轄に入った』
内乱の終結を我々に言い渡した錬金術に長けた大佐は、いつもの苦虫をつぶしたようなその渋い表情を少しも和らげることをしなかった。
『終わったのか……?』
『終わった……?』
勝利の甘い陶酔はまだ俺たちの手には遠く、灰土に汚れた兵士たちの多くが終戦の感慨に溺れることも出来ないまま、確かめるようにそう口々に呟い
た。
『帰れる!これでやっと内地に帰れるぞ!』
そんな中ひときわ高く上がった誰かの力強い声を耳にして、ようやく男達の表情が輝きだし、傍に居る者と抱き合いながら生きて家族の元に返れる喜び
をかみ締めたのだ。
「ふぅ、やっと帰れるのか」
誰彼かまうことなく、抱き合い肩を叩き合って喜ぶ同胞たちを尻目に、俺は座っていた椅子に深く座り込みながら自分の靴のつま先を見下ろした。
灰色に煤けた軍靴をしばらく眺めたあとに目を閉じる。
そうして思いを馳せるのは、俺のグレイシア、その柔らかな肌、アップルパイ。
連想ゲームのように浮かんでくる優しい記憶は、確かに心の中に深く刻まれているはずなのに、不思議なことにそれらの面影はついぞ瞼の裏に浮かび
上がってはこなかった。
もどかしくなって俺は奥歯をかみ締める。
哀しいことに甘く煮たリンゴの柔らかな感触はそこには無く、いつの間にか口の中に入っていた砂の、ザリザリとした固い違和感だけが俺の口腔を汚し
ていった。
「っ、クソったれが」
小さく悪態をついてから砂を吐き、ゆっくりと目線を上げる。
いつの間にか風はやみ、塵と砂、そして暑さによどんだ空気だけが俺の周りに残されていた。
「ロイ……」
無意識に友の名を呼ぶ。
途端に周囲の空気とはハッキリと異なる得体の知れない熱が、俺の唇を侵した。
ロイ、帰れるんだ俺たちは。
凄まじいまでの火柱を立ち上げる軍の英雄が、その能力を遺憾なく発揮できる無風の砂漠。
だが終戦を迎えた今、彼を駆り出す指令が前線に届くことはもう無いのだ。
その事実にホッと胸をなでおろした俺だったが、そう思う先からポトポトと、鬼神のように炎を放つロイの壮絶に美しい姿が見られなくなることを惜しむ気
持ちが、その同じ胸の奥から漏れ出しているという事にも気がついていた。

――――俺は一体…あいつのどんな表情が見たいんだ?

自分の心の中に同時に芽生えた、相反する気持ちに突き動かされて、俺はたまらず椅子から立ち上がりロイの姿を探した。
それはロイに許しを請う為ではなく、ただ単にあいつがどんな顔で今現在を過ごしているか、それを知りたかったからだ。

俺が重い腰を上げた頃には、瓦礫に埋め尽くされたイシュヴァールの街中を、国軍の歓喜の声が埋め尽くしていた。
うっすらと見覚えがある金髪の将校に呼び止められ、彼が手にした杯を勧めてくるのを適当に受け流して、俺はひたすらあいつの姿を探す。
喜びのあまり瓦礫によじ登った兵士が、小躍りした途端にバランスを崩して結構な高さから滑り落ちる瞬間に出くわしても、俺は歩みを止めることをしな
かった。
そんな風に背後の喧騒を潜り抜けたところで、また次の高らかな笑い声と歌声がいたる処に満ち溢れ、動きを止めた砂地を覆う。
尽きない声、差し出される無数の汚れた手。
何度それをかわしたか数えるのも面倒になった頃、俺は漸く捜し求めたロイの姿を見つけ出した。

英雄はひっそりと、瓦礫に寄り添うように座り込んでいた。
「おーい、ロ―――…」
士官学校時代、廊下を歩くあいつの背中に向かって声をかけたように、俺はひとり礫の中に佇むロイに呼びかけようとしたのだが。
俺の声があいつの元へ届く前に、突然ワラワラと現れた下士官たちの後姿がロイの姿を覆い隠してしまった。
ロイを取り囲む男達が一体何を喋っているのか、俺にはさっぱり判らなかった。
しかし男達の落ち着いた態度を見れば、彼らが自国兵の間でも陰では畏怖の対象となっていた国家錬金術師を、終戦のドサクサに紛れて揶揄し危害を
加える心配が無いということは一目で判ったので、咄嗟に俺は傍観者を決め込むことにした。

誰かが身動きするごとに、お零れのように俺の視界の中にロイの肉体の一部が映りこむ。
煤けたコート、黒ずんだ頬、男達に手渡されたカップを握りこむ長い指。
それらの断片的な情報を脳内で組み立てていくうちに、俺は喉仏がヒクヒクと痙攣するほどの笑いの発作に見舞われそうになった。
だんだんと口角が釣り上がっていく自分の口元から笑い声が漏れないように、腹に力を入れる。
そうこうするうちに、スイっとロイの近くに歩み寄ったひとりの男のお陰で、奴の全身がようやく俺の目に晒された。

ああ、グレイシア。俺は君のことを決してここでは思い出せない。
それが何故なのか、今わかった。
奴は笑ってはいなかった。
"仲間"に取り囲まれてなお、奴は軍が差し出した未来を信じてはいなかった。
誰よりも青く、甘ちゃんなロイにすら見放されたこの国の未来。
そんなものが優しい君に似合うはずが無い。



「欲望の翼」ウォン・カーウァイ監督(香港)

(2006.08.27)


←銀幕

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送