飛ぶ、


ロイとヒューズが揃って歩く渡り廊下は既に夕刻を過ぎた薄闇の中に浸され、彼らの足元を危うくしていた。
「はーっ、参ったな……」
ブラッドレイとの接見を果たした後の、緊張感から解き放たれた気安さからヒューズは愚痴をこぼした。
「明日の技能試験を越えれば少しゆっくり過ごせると思ったのによ」
「お前の頭の中には(追試)の二文字が抜けているようだな」
「はんっ、俺様がそんなヘマをやらかすかよー」
「ふん、可愛げのない奴め」
「おまえにだけは言われたくねーよっ、その言葉!」
悪魔的とも言える、ブラッドレイの支配の手から解放されたふたりは、
小さな羽根をぱたぱたと健気に動かして飛ぶ一対の蝶のように蒼い闇の中をじゃれ合いながら、
自分達の小さなねぐらを目指してその歩みを速めた。
「そう言やおまえ、今日の組織管理学のテストどうだった?」
「どうって…何がだ?」
「そりゃおまえ、出来たのか出来なかったのか、それを訊ねてるんだろ?」
「愚問だな。俺にそんなことを訊いてどうする」
「自信満々ってところかよ。やっぱりお前の方が俺よりも可愛げねーって…」
呆れた声でロイを揶揄するヒューズの言葉尻を奪うように、冷たい風の一陣が彼らの間を通り抜けていく。
その風は少し無精をしていたせいで伸びたロイの前髪を弄び、西の空に消えていく。
乱れた前髪を押さえながら、ロイは高く星たちが煌く東の空を見上げ、感情の篭らない小さな声で囀った。
「東風か。今のはイシュヴァールから吹いてきた風かもしれんな」
国が思うように戦局の運ばない長い内乱は、自分達の手の届かぬ場所で今も続いている。
その尽きない戦火が身近に感じられるようになるまで、もう幾許の猶予も自分達には残されてはいなかった。
「さぁな…」
試験の出来や、友情の行方に一喜一憂した小さな世界は、
より強大な力を貪欲に求める自分達をさっさと放り出す準備に取り掛かっている。
この堅苦しくも、幾多の思い出の詰まった巣箱のような場所から離れることに対して、
二人はさして特別な思いを抱いてはいなかったが、それでもふとしたきっかけで目に入る、
同室の友の横顔を縁取る思いがけず長い睫毛や、無意識の独り言を耳にするたびに、
互いに空気のようだと思っていたその存在が、俄かに何ものにも替え難い大きなものだったのだと、
ひしひしと胸に差し迫ってくる日々がここのところ続いていた。
「ここからおさらばしたら俺達、一体どこに配属されるのかなぁ」
「お前は明日の文官技能試験を無事にパスできれば、希望通り軍法会議所に配属の運びになるんじゃないのか」
「んー、その為に勉学に励もうと思って部屋に篭ってたのに、えれぇタイムロスを食っちまったな。
大総統から直々にたまわった大役をどーんと引き受けたんだから、そこら辺ちょっとは優遇してくれねーかな?」
軽く悪態をついたあとにうんと勢いをつけて伸びをし、ヒューズは両腕を天に突き出した。
長身のうえに、手足の長い彼の肢体が凶器のように夜を裂く。
高く掲げたヒューズの右手が、手入れの行き届いていない校庭のけやきの枝を揺らすと、
黒々とした枝葉の隙間から小さな下弦の月が姿を現した。
「で、おまえは?やっぱ、国家錬金術師の資格を狙う訳?」
「ああ。大総統もそれを見越した上で、この先有望な国家錬金術師候補を青田買いしに来たんだろう」
使いものになるか、ならないか、それが全てだった。
国家錬金術師を目指すロイと、その学友で学年主席からすべり落ちたことのないヒューズは、
謂わば士官学校の目玉商品とでもいうべき人材だ。
今日は二人一緒に競り市の台の上に上らされて値踏みされ、二日後には自分達の値をつりあげる為に、
大総統をはじめとする軍のお歴々の前で共闘戦線を張る。
たった三日間だけの運命共同体。
まるでこの数年の間培ってきた、自分達の小さな組織力を見せてみろといわんばかりの要求だった。
「そうすっと、大総統直轄部隊に配属だな。てーことは、お前も最初は中央勤務が濃厚ってことか」
「そうなるかな。まあ俺の場合はほぼ確定のお前と違って、ここで先のことをどうこう言ったところで、
未だ『獲らぬ狸の皮算用』の域を越えてないがな」
そうは言ったものの、ロイの研究する分野は突き詰めていけば即戦力になるばかりか、
使い方如何によっては禍々しいまでの戦果を軍に与えうることが出来るはずのものなのだ。
その上学者肌の多い錬金術師の中にあって、全うな軍人教育を受けているというだけでもメリットは大きい。
「またまたご謙遜を。まだ任官しないうちから大総統の目に留まる御仁が何をおっしゃる〜」
二人の進む道はもう決まったも同然だった。
そして同じように軍歴の足跡を残していく身となっても、接点の希薄さ故にこれからはすれ違いが続くことも決定的だった。
学生時代の濃密な交わりは遠い過去のものになり、
自分だけが知っていると自負している互いの癖も無駄な知識とばかりにいつしか忘れ果て、
記憶の底に沈められてしまうのがオチだ。
「ヒューズ、早く部屋へ戻ろう」
いつの間にかピタリとやんでしまった風。重なりあった枝葉を揺らすものは無く、
細い月は完全にふたりの視界から消えてしまっていた。
「冷えてきた。それにお前、明日の試験の用意もしなければならないだろう?」
「ああ、そうだった!」
闇が深くなっていく。
そしてそれと同時に止まっていた時間が動き出し、夜の中に溶け込むように足を止め、
密やかに立ち話をしていたロイとヒューズを俄かに急き立てだした。
「明日の試験が終われば、次はお前のお守りが待ってるしな。いやぁ、頼られる男は辛いぜ」

どんなことをしたって、時間は止まってはくれない。
今、隣に立っているヒューズの手が暖かく、心地よいものであっても――…。

「えっ?おい、ヒューズ!」
「早く戻ろうぜ。こんな所でいつまでもぼーっと突っ立ってたら、俺達がいくら優秀だといっても皆から取り残されちまう」
素早く動きだしたヒューズの大きな右手に冷えてしまった左手を強く握りこまれ、
ロイの身体は前に進みだしたヒューズに引きずられていく。
「時間がねぇんだ、ロイ。俺達の麗しい未来を築くために、さくさくと邁進していこうぜ」

そして何よりもこの友が、止まることを望んではいなかった。


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