大尉の娘


ミセス・セシル・ジョーンズは、巷で名高い良妻賢母の鏡と呼ばれる女性だった。

代々軍人を多く出した家系の、彼女自身も元大尉の娘で、そんな背景から誰もが彼女も軍関係者の元に嫁ぐものだと思っていたが、
そんな大方の予想を裏切って彼女が東部の商家の長男と結婚したのは、今から六年前のことだった。

「あなた、オードブルはこれくらいでいいかしら?それから、メインの子羊の肩ロースのことなんだけれど…」
三日後に控えた新店オープンの祝賀パーティの準備に余念の無い夫人は、注文伝票を手にして細身の身体で
オフィスのあちらこちらを飛び回っていた。
「ああ、パーティのことは君に全て任せるよ、セシル」
君はいつだって招かれた人々に笑顔を与えて家路に就かせる、だから―――ね?
夫から軽く頬に口付けられ、夫人は苦笑を浮かべた次に、それでも体よく丸め込まれるのは性に合わないと、見せ付けるように唇をへの字に曲げた。
「そんなことを言って、また私に全部押し付けようとするのね」
けれど、多忙な夫を陰で支え、目出度く授かったふたりの子供を育てる毎日は、目が回るほど慌しく、そしていつだって満ち足りていたのだ。

それなのに、ふと。
何かが足りない、そのことに気付く一瞬がある。
しあわせの後ろにいつも控えている、やるせない喪失感。
それが消える日などいつまでたっても来やしない。夫人はその事実をずっと前から既に受け入れていた。


「あら、ヴーブ・クリコが結構あるわね。お父さん、これも貰って行っていい?」
「ああ、構わんよ。エレンが死んでからシャンパンを飲む者はこの家には居ないからな」
目出度いパーティの席の彩りにしてくれと、夫人の実家のワインセラーに長らく眠らせていた果実酒の数々を提供すると父から連絡を受けて、
その日夫人は懐かしい実家へと足を運んだ。
肉親ゆえの心易さから、手当たり次第に目に留まったワインやシャンパンの瓶を足元に下ろしていく娘に、
ここ数年で頭髪に白いものが目立つようになった父親は目を丸くした。
「おいおい、そんなに欲張って。車に全部運ぶまで一体全体、何往復するつもりなんだ?」
「大丈夫よ。私だって軍人の家の娘なんだもの、これくらい一人で運べるわ」
なんの根拠も無い自信を持ち出して胸を張る娘を手伝おうにも、持病の痛風が悪化しつつある身ではそれすらも叶いそうに無い。
そしてその父親の病のおかげで、この家のワインセラーに横たわる豊富な酒を譲り受ける恩恵にあずかった娘は、
父親のその口惜しい気持ちを黙ったまま受け取っていた。

「このボルドーも肉料理に合うのよね…」
花屋の店先で気に入りの花を見繕うように、大きなワインセラーから無邪気に一本の漆黒の瓶を引き抜いた夫人の手元を掠めて、
パサリと一枚の封筒が床に落ちた。
「あら、これ何かしら?」
ボルドーの赤を床に置いたあとに、足元に落ちたその白い封筒を夫人は細い指でつまみ上げた。
几帳面にペーパーナイフで開封されたその手紙の宛名は、三年前に他界した母のもの。
そして冷たい床の温度そのままに、長らく捨て置かれていたその色あせた手紙に垂らされた赤い封蝋には、
ハッキリと【D・A】という頭文字が記されていた。
「父さん、これ…ダニエルからの手紙だわ」
ひび割れそうに冷たくなった手紙に体温を移すように、夫人は封筒から取り出した数枚の便箋を何度も何度も繰り返し掌で撫でながら、
懐かしそうに鳶色の瞳を細めて静かに微笑んだ。

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親愛なる母さんへ。

お元気ですか?ここ数日、東部は寒い日が続いているようですが、風邪などひいてないですか?
新年の休みが明けから、こちらは予定通りサクサクとカリキュラムが進められ、いつも及第点ギリギリのラインを彷徨っている僕は、
ついていくだけでやっとです。
そうそう、この手紙はこの前の帰省中に母さんから貰った万年筆で書いているんですが、指に馴染んでとっても書きやすいです。
実は内緒にしていたんですが、先の学期末に提出した防衛学のレポートで不可を付けられてしまい、今月末までに再提出しなければならいのですが、
再レポートはこの万年筆で仕上げようと思っています。
そうすれば今度は上手く行くような気がするんですけど、それは甘い考えだと思いますか?
勿論、母さんに貰った万年筆に頼る他力本願だけでなく、自分の努力が一番必要だと思っていますが。
(そんな訳で、このことは父さんには内緒にしておいてください、お願いします)

士官学校での生活の殆どは、当たり前のことですが勉学で占められています。
でも、そんな中でも楽しいことや面白いことは多少はあるもので、その筆頭とでも言うべき生徒主催の新年のダンスパーティーは、
今年も【取り敢えず】盛況のうちに幕を閉じました。
以前にもお話したことがあると思いますが、このダンスパーティーは年毎に変わる実行委員を除けば、参加・不参加は各自の意思で選択するのですが、
女子寮の子たちと仲良くなるきっかけを作るには、このパーティに参加するのが一番ということで、余程ひどい風邪にでも罹らないかぎり、
誰もが参加するのが当たり前だと皆が皆、そう思っていたのです。
それなのに今年は例年に無い大波乱があり、中央士官学校中に静かな嵐が吹き荒れました。
と言っても、男子生徒の殆どが諸手を挙げての万歳状態、嘆くのは我々にとっては高嶺の花の女子寮の生徒のみという、
全く持って偏った冬の嵐ではあったのですが。
ああ、結果だけ書いたところで、母さんには全く話が見えないことでしょうね。
つまり、この愛すべき我々のダンスパーティーに敢えて参加しなかった男子生徒が、今年はひとりならずふたりも居たということ、
そしてその二人が図らずも学年のトップとナンバー2を常に争う仲の、マース・ヒューズとロイ・マスタングだったということが、
その騒ぎをいたずらに大きくしたという訳です。

既に幹部候補生本科に進むことが本命視されている最上級生で、その上ふたりして一度も乙種にも落ちたことの無い優等生。
マース・ヒューズは話題が豊富で機知に富み、数々の実施試験でリーダーシップを取るような、指導者の器を持った人物です。
その上、色々と周囲に気を配ることが出来る奴なので、男女共に人気が高いんです。
対するロイ・マスタングは、見た目は少々小柄ながら誰もが美形と認める容姿をし、士官学校の学習課程だけでなく、
錬金術師としての才能にも秀でた、所謂【天は二物を与えず】に全く当てはまらない、なんとも羨ましい奴です。
学者肌気質がそう見せるのか、最初は取っ付きにくい面ばかり目立ったのですが、話してみると結構面白い奴で、
特にマース・ヒューズと一緒にいる時は、彼らの会話は少々漫談めいて聞こえるほどです。
まあ、一番のライバルが一番のベストパートナーという、謂わば我が校の名物コンビである彼らは、男子学生にとっては目の上の瘤という
一面もありましたが、それでも無骨ながら学内の華となるに相応しく、今回のパーティにも無くてはならない人材だと目されていたのです。

それなのに、思っても見なかった彼らの不参加表明。それを聞いて今年の実行委員は俄然いろめきたちました。
中でも僕と同室のアレックス・フランカーは【絶対に納得いかねー!】と鼻息荒く、彼らの真意を探ろうと僕を半ば無理やりお供にして、
彼ら(ふたりは同室なのです)の部屋を訪ねたのです。

まず、最初の訪問時に在室していたのはマース・ヒューズでした。
なぜ今年のダンスパーティーに出席しないのかという、フランカーの最もな問いかけに、彼は不可解にもよくぞ尋ねてくれたというように、
嬉々としてその答えを話し始めました。
【今の俺はさー、もう色んな面で満たされまくってる訳よ。それこそ女学生相手のめくるめく駆け引きも必要ないくらいにはさぁ】
目尻を思いっきり下げていきなりそう切り出したヒューズの言葉を、そこで遮っておけば問題はなかったのですが、
フランカーの方も得心するまで食い下がるつもりだったのか、その時留守にしていたマスタングの椅子をヒューズが座る椅子の傍まで引きずっていき、
尋問よろしく聞き込み調査を開始してしまったのだから、付き添い役の僕にはもう手の出しようもありません。
お陰で、その時図書館に篭っていたマスタングが戻ってくるまでの一時間あまりを、ヒューズののろけ話に耳を貸す羽目になってしまいました。
ヒューズ曰く、学問の息抜きと親交を深めるためのダンスパーティーは、三年に進級した彼にとっては既にその役割も旨みも失われ、
興味をそそられる対象ではなくなってしまったというのが、不参加を決めたまず一番の理由ということでした。
【女の子との軽いお付き合いも楽しくないわけじゃねーけど、それよりもスリリングな対象が居ると、どうしてもおべんちゃら混じりの白々しいやり取りが
虚しくなるんだよなぁ】
【それに、我がままで傲慢なくせに、意外と寂しがり屋な子猫を手なずけるだけで今の俺は精一杯なんだよ】
【ああ、そりゃもう可愛いってもんじゃねぇぜ。一度嵌ったら抜けられない罠?そんな感じで俺は首まで子猫ちゃんにゾッコンだから】

もう笑ってしまうでしょう?こんな風にのろけのオンパレードだったんですよ。
自分の彼女のことを子猫ちゃん呼ばわりするオヤジ臭さもさることなら、学内の誰もが一目置いているような男が、
ひとりの女の子に毒気を抜かれてメロメロになっている姿は、傍から見ればなんとも可笑しくて、僕は彼らのやり取りを聞いている間に
何度か噴き出しそうになりました。
けれどさすがに、一時間以上も彼女自慢を聞かされれば苦痛の方が先走ります。
フランカーもきっと僕と同じ考えだったのでしょう、もうひとりの時の人、ロイ・マスタングが部屋に戻って来た時には、
ヒューズののろけを終わらせる良いきっかけだとばかりに、二人揃ってそそくさと彼らの部屋を後にしたのですから。

しかし、そんな酷い目にあったにも関わらず、フランカーの追求は続きました。
またもや僕をお供に引き連れて、次の日にはマスタングの方にアタックをしたのですから、全く持って彼も懲りない奴です。
まあ、それもこれも、ヒューズとマスタングがこの三年間全学科で一位と二位を独占しているお陰で、
万年三位という地位に甘んじるしかなかった彼だからこその執念かもしれません。
凡庸な僕からすれば、万年三位というだけでも凄いもんだと思いますけどね。

おっと、少し話が逸れてしまいましたね。
次にマスタング側の弁明を少しだけ記しておきましょう。
彼はさすがにヒューズほどあからさまなのろけはしませんでしたが、結局はヒューズと同じで、自分にも決めた相手がいて、
今はその彼女だけで充分すぎるほど事足りているのと、目前に国家錬金術師の試験が控えているというのが、不参加の大まかな理由でした。
【面倒見がいいと言うか、少しうざったく思うほどだけど――――】
聞きもしないことをベラベラと喋るヒューズとは対照的に、フランカーの誘導に乗る事無く理由を語るマスタングから漸く聞けた彼女についての言葉は
それだけでした。
でも、結局は未来の有望株である二人が二人とも、既に心の中に決めた人が居ると言うことには違いなく、結局フランカーも僕も、
彼らには勉強だけでなく恋愛事まで先を越されてしまったという訳です。

それにしても何もかもに秀でた彼らに、単なるお遊びのひとつでしかないダンスパーティまで控えさせるほどに愛されている女性って、
一体どんな人なんでしょうね?
下世話ながら、少しだけ興味が沸いた次第です。

気がつけば、肝心のダンスパーティーのことは何一つ書いていませんでしたね。
残念ながら消灯時間が近づきつつあるので、そちらの報告は来週お送りする手紙に書くことにします。

それでは今回はこの辺で。
寒い日が続きますが、どうぞお身体大切に。

ダニエルより。

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「懐かしいわ、この手紙。偶然に私も目にしたことがあるからよく覚えているわ」

愛しげに尚も黄ばんだ便箋を細い指先でなぞりながら、夫人は十年も前に弟が母に送った手紙を視線だけで読み終えた。

「本当にダニエルったら、素直というか…鈍感というか」

そう、あの日も。
自分は今と同じ言葉を笑いながら母に零したのではなかったか。

寒い日は決まって暖炉の傍で弟からの手紙を読んでいた、母の背中を夫人はふと思い出す。
その背に掛けられた、不揃いの網み目のベージュのショールは初めて仕上げることが出来た自分の作品だったから、余計にその姿を覚えている。
『なあに母さん、これってダニエルからの手紙じゃない、ちょっと見せて頂戴!』
母には週ごとに小まめに手紙を送るくせに、自分にはシーズンごとにしか便りを寄越さない弟が、一体どんなことを書いてきているのか知りたかった。
そして女である自分には知る由も無い、男子寮で過ごす弟の生活がどういうものか単純に興味があった。
そんな好奇心が突き動かすがまま、母の返事を待たずにその小さな手から封筒ごと手紙を抜き取って読み上げた印象深い手紙だった。

『もう、ダニエルったら…なんて鈍感な子!』
読み終えた途端に堪らず笑い出した自分を、母は童女のようにきょとんとした顔で見つめていた。
『いやだ、母さんも判ってないの?ダニエルの鈍さはもしかしたら母さん譲りじゃないかしら』
『判らないのはおまえの方よ。一体なんですか、急に部屋に入ってきたかと思ったら、いきなり読んでいた手紙を奪い取って』
娘に遠まわしに鈍いと言われたことが気に障ったのか、ぷりぷり怒り出した母を見て、余計に笑いが止まらなくなった。
『一体どんな彼女なんでしょうね……ふ、あっははは!』
弟が想像する、彼らの【彼女】なんて、きっとどこを探しても居ないに違いないのだ。
『もう少し鋭い洞察力を持たないと、出世出来ないわよ、あの子』
父親はせめて自分と同じくらいの地位か、それ以上を息子に望んでいるらしいけれど、ここまで擦れずに育った素直な弟が、
生き馬の目を抜く軍隊の中で世渡りしていくのは果てしなく難しいことだと思う。
『万年少尉さん、なんて呼ばれたりしてね』

けれど、それでもいいと思っていた。
呆れながら、でも無言で娘の手から息子からの手紙を取り戻した母も、多分同じ気持ちでいたのだと思う。

――――きっと今でもあの子には、私が笑った意味は判らないんでしょうね。

素直で真面目な、自慢の弟。
同じ学び舎で過ごした、近しい友人たちの秘められた恋に気付かないまま士官学校を卒業し、
軍人となって二十二の若さで父と同じ大尉に昇進した、彼。

「いいのよ、あなたは。ずっとそのままで」

読み終えた手紙を封筒に戻し、夫人はそっとその手紙を元あったワインセラーの中に押し込んだ。



「大尉の娘」 ローランド・リー監督(米国)

(2006.01.14)


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