しじま(ハボロイ)



「ハボック少尉、お先に失礼します。よいお年を!」
「ああ、来年もよろしく」


上司に命じられ、寒い書庫で埃まみれになりながら、探し出してきた大量の資料を抱えてひとり歩く廊下で、
ハボックはすれ違いざまに華やいだ女の声を耳にした。
知らず知らずのうちに歩幅が大きくなっていた足を止め、微かに香る香水の軌跡を追う。
冷たく澄んだ冬の夜には良く映えるに違いない、プラチナがかった金髪の事務職員は、振り返ったハボックに今や完全に背を向けて
軽やかな足取りで遠ざかっていく。

「いいなぁ…」

思わず呟いたその短い言葉は、見事な曲線を描く彼女の後姿に対してではなく、
無邪気に投げかけられた彼女の歌うように弾んだ声に対してだった。
その高く甘いさえずりは、ニューイヤーイブを共に過ごす者が居ることをあからさまに周囲に告げるものだ。
あの駆け出さんばかりの足取りも、既に職場を飛び立っている心を暗に表しているようで、
新年をこの東方司令部で過ごすことが決定しているハボックの心を、ほんの少しだけ波立たせた。



「失礼します。大佐、このメモにあるもの全部かき集めてきましたよ」

塞がった両手の代わりに、行儀悪くつま先で軽く執務室のドアを蹴る。
仕事の手を止めることなく、真面目に働いている時の上司の返事の間合いを測り、資料を持ったままの右手の指を素早く伸ばしてドアノブを回す。

「ああ、ご苦労。こちらへ持ってきてくれたまえ」

低い場所から聞こえてきたノックの音を咎めることもせず、それどころか書類に落とした視線さえ上げることなく
白い指先一本だけでロイはハボックに支持を出す。

「へーい…って、アンタの机のどこにこの大量のファイルを置く場所があるって言うんすか?」

積み上げられた書類の束は、どう見積もっても今年中には片付くことは無いと予測出来る壮観さだ。
これ以上そこに積み上げれば、きっと紙束の山は耐え切れずに雪崩を起して、俯いた黒髪の形の良い後頭部を直撃するに違いない。

「ああ、それじゃ…」

最悪の事態だけは避けたいという思いから、その場から動けなくなってしまったハボックに二度目の指令が下る。
つい…っと気まぐれにさえ思える動きで空を彷徨った指が、今度は自らの足元に狙いを定めてピタリと止まる。

「床に直に置いていいんっすか?」
「ああ、構わない。そうだ、取りあえず年代の若いものを下にして順番に積み重ねて置いてくれないか」
「イエス・サー」

漆黒の瞳は先刻と変わらず、まだハボックの方を見ようとはしない。
それに焦れるほど自分は青くないと言い聞かせながら、指定された場所へと一歩を踏み出す。

けれど――――
(ダメだ…)
ここは砂漠のように暑い。
書類の重さに手間取る振りをして、ことさらゆっくりと彼の縄張りの内側へと近づいていく。
けれど近づくごとにハボックの意識が、視線が、全てが、砂漠でオアシスに手を差し伸べるように、つれない恋人に駆け寄ろうとして足掻くのだから、
我ながら始末におえない。

「それじゃ、ここに積んでおきますから、くれぐれも蹴り倒さないでくださいよ」

――――アンタ、足癖が悪いんだから。

「ご苦労だった、ハボック少尉」

止まらない紙の束を捲る音と、そこに紛れるペンを走らせる音。
彼と二人きりになることは、プライベートな時間を含めて少なからずあるというのに、こんなに静かな時間を短時間とは言え共有することは珍しかった。

「では、ジャン・ハボック少尉、通常業務に戻らせていただきます」

まるで母親の気を引きたい子供の仕草だと思いながら、相変わらず書類とお見合いをしている上司に向かって敬礼を。
そうして執務室の扉の方へ振り返ろうとした瞬間に、大きな窓を閉ざすエンジ色のカーテンの隙間から、
新年を告げる花火が散らした赤い閃光がハボックの瞳に飛び込んできた。



ロイの執務室に接した司令室は、先程までの静かな時間が嘘だとでもいうような喧騒に満ち満ちていた。
多くの人々が、大切な家族や、愛しい人と過ごす新年最初の夜だったが、東方司令部内で一夜を過ごす者たちの間では
今宵が特別な日という認識は薄かった。
何しろ血気盛んなテロリスト達が、年中無休という方針で派手な営業展開を行ってくれるのだから、職務上そのお相手を務めるべく、
軍人たちは毎日を変わる事無く気を張って過ごさなければならなかった。
そういう意味では新年だけでなく、祝祭日も、誕生日も、全てが等しく味気ない一日だ。

それどころか、お祭り気分で浮かれながら夜を過ごす者たちが多いこの日は、酒が絡んだいざこざや、女を挟んだあれやこれやが
街の四方八方に溢れ出し、かえって憲兵隊の出動が多くなるとう悪循環を引き起こす。

「イヤな日だな」

全く本当に、他人の恋路や幸福を、祝ってやれるほど人間できちゃいないんだと、呟きながら鳴り響く電話の受話器にハボックは手を伸ばす。

「はい、司令室っす!」

少しだけ棘を含んだその声は、またもやけたたましく打ち上げられた花火の音に掻き消された。



結局、その日司令部に残った面々がやっと一息つけるようになったのは、新年が明けてからゆうに五時間を過ぎた頃だった。
トラ箱に捕獲されたケダモノたちが暴れまわったあとには、アルコールと血の匂いが混じった、なんとも言えない臭気だけが残された。
祭のあとの静けさというには、あまりにも侘しい繁華街の虚ろな朝の幕開けだった。

「ハボック少尉、お疲れ様でした。報告書がひと段落ついたら仮眠を取ってちょうだい。あなた、少し顔色が青いわ」
「大丈夫っすよ。でも…やっぱり少し疲れましたね」
「酔っ払いの相手はただでさえ疲れるものよ。それが束になってちゃ余計に手に余るわ」
「じゃあ、これを大佐に提出したらお言葉に甘えて、仮眠室をお借りします」
「残念ながら、大佐は一足先に仮眠を取ってらっしゃるわ。先に私が目を通しておきますから、仕上がったらこちらに回して頂戴」

そう言いながら、背を向けて遠ざかっていくホークアイの束ね髪から一筋零れ落ちた後れ毛が、数時間前に見送った、事務職員の後姿に重なった。
この広い、司令部という籠の中から愛しい者の元へ飛び立って行った美しい鳥。
それを心のどこかで欠片ほどに羨んでみても、ハボックが想う唯一の存在は今、この堅牢な籠の中で短いまどろみに落ちているのだ。
どれほど奔放に見えても、彼ほど色んな鎖にがんじがらめになっている者はそう居ないだろう。
そんな彼を、色んなものから解放させて、自分の腕の中で休ませてやりたいと思うのは、多分大いなる思い上がりで、
この長身に見合った長い腕もあの勇ましい寂しがり屋を完璧に囲いこんでやるには、まだあまりにも脆弱だった。
二人きりで過ごす夜を諦めた潔さが嘘のような、胸の奥に落ちたわだかまりの深さに、ハボックはまだ自分が、
大切な人を守りきれない力の及ばなさに唇を噛むことを許された若造でしかないことを思い知らされる。


民間人相手の大立ち回りに関する報告書の制作は、デスクワークが苦手なハボックにとってもそれほど長引く仕事ではなかった。
眠気覚ましの不味いコーヒーを啜っている割には、凛と伸ばされた背筋がいつもと変わらないホークアイに仕上がったばかりの報告書を提出し、
ハボックは司令室を後にする。
薄暗い階段を下りる途中にであった者は誰一人居ず、ハボックを捕らえた物思いはより一層ハボックの中に浸透していった。

一度も自分の方を見ることのなかったあの黒い瞳は、今ごろ執務室の隣に設えられた狭い休憩室の中で浅い眠りに浸されて
閉ざされているのだろう。
その目がこちらを見てくれないのなら、それは眠っていても起きていても、自分にとっては大差ない。
だがこの同じ司令部の屋根の下、ロイの気配がいつでも感じられるほど自分の近くに居てくれるのなら、
大勢の中のひとりという立場を甘んじて受け入れようと思っていたのだ。

「あー、大佐に新年の挨拶もしないまま、今日一日を過ごさなけりゃならねぇのかな…」

気付けば、自分はまだ誰とも新年の挨拶を交わしてはいなかった。
新しい年の始まりを分かち合う最初の人物は、ロイだと勝手に決めていた自分の純情が音を立てて崩れていくような、
そんな気持ちでハボックは尉官用の仮眠室にするりと忍び込んだ。


シングルベッドが六台並んだだけの狭い部屋に、フットライトの小さな灯りが点っている時は、先客が室内で眠っているという目印だった。
足元を照らす濃いオレンジ色の小さな灯りに導かれて、明け方のぼんやりとした室内を見渡せば、
ブラインドを下ろした窓辺に沿って置かれたベッドにシーツの小山がこんもりと盛り上がっている。
すっぽりと耳元までベージュのシーツを被って、ハボックに背を向けて眠っている男は、薄い闇の中にあっても艶を放つ黒髪を
惜しむ事無く枕に散らしていた。

「あれ?」

半ばうっとりとその繊細な輝きに見とれていたハボックだったが、我に返ってすぐに決定的な違和感に気付く。
そう言えば、新年初の夜勤のメンバーの中に、黒い髪を持つ尉官は存在していただろうか?
それでなくとも闇の中でさえ人目を惹く、こんな見事な黒髪を持つ者なら、すぐに思い当たるはずだ。

「まさかな…」

そして惚れた贔屓目にしろ、ハボックが真っ先にその濡れた闇の色を目にして連想した人物は、たった一人しか居なかった。


「ん…誰か居るのか?」

ゆっくりと忍び寄ってくる足音を聞きつけて、シーツがさわりと波打った。

「大佐、ですか?」

不機嫌な寝起きの低い声も、目覚めてすぐに前髪を掻きあげる仕草も、ハボックが狂おしく求めて止まないものたちだ。

「どうして尉官用のベッドなんかで…」
「人を待っていたんだ」

そろそろと起き上がったあとに、欠伸を噛み殺す為にしかめた顔が、より一層に童顔を強調させて、堪らずハボックは破顔する。

「なんだ?」
「いいえ、なんでもないっす。それよりも、待ち人は来たんですか?」
「さあな」

思わせぶりに立ち尽くしているハボックを見つめた後に、ロイは夜の帳を残す瞳を伏せてそのまま窓辺に向けて視線をさ迷わす。
いつの間にかブラインド越しに、黄金色の光が仮眠室に忍び込んでいた。

「すっかり夜が明けてしまったな…ハッピーニューイヤー、ハボック少尉」

その光と共にロイから差し出されたものは、愛の言葉でも無く、求める言葉でもなく、ただ単純に新年を迎えた者が口にするありふれた言葉だ。

「ハッピーニューイヤー、大佐。今年もよろしくお願いします」

けれどそれはハボックにとっては、神の啓示にも似た何よりも大切な言葉だった。


――――この一年を、貴方に捧げます。

ロイから貰ったその大切な言葉をしっかりと受け取るために、ハボックはベッドの上で金色のしじまに包まれている上司に向けて、
静かに手を差し延べた。


(2006.01.01 UP)


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