パルプ・フィクション



それは膨大な損失だった。
まだ歳若いとは云え、彼女は自分が生きてきた道程の中で、これ以上の悲劇を見出すことが出来なかった。

「シェスカ、悪いね。新人の君にメインになって働いてもらうことになるなんて」
「いいえ、とんでもない!私、すっごく幸せなんです!!」

だが、今の彼女は目の前に横たわる悲劇を乗越えて、新たな幸福を手に入れようとしていた。
本を愛し、本に溺れた彼女のことを、これまで嘲笑う者は居ても必要としてくれる者など皆無だったのに、
稀有な出会いによって彼女は唯一神に授かった才能を、思う存分発揮することが出来る場所を手に入れたのだから。

アメストリス国随一の蔵書を誇る、国立中央図書館。
その第一分館が何者かの手によって業火にまかれ、貴重な文献が灰になってしまってから一ヶ月を目前にして。
鋼の錬金術師、エドワード・エルリックのお墨付きで、ヒューズ中佐がスカウトしてきたシェスカを中心に、
失われた宝を復活させる為のプロジェクトが発足したのだった。


「シェスカさん、東方司令部より荷物が届いています。多分、送ってもらうように手配していた軍歴簿と東部の名士の手になる文献などだと思うのですが」
「ああ、ありがとうございます。そこに置いててください」

一度読んだものは一字一句違わずに、その頭の中に叩き込んでいるという驚異的な特技を持ったシェスカではあったが、
第一分館全部の蔵書を復刻する為には、彼女の手だけではその一生を超えて余りある時間を割かねばならないのは必至だった。
だがそんな悠長な計画を、国も、軍も、国民も、支持してくれる筈がなかった。
そんな訳で、国内で再び調達できる文献は、各地方からの寄付や写しで賄うことになったのだ。

「ふぅー。覚悟は出来てたけれど、いざ取り掛かってみると疲れるわね…」

周りに誰も居なくなってから、こりこりと張った肩を揉み解しながら、シェスカはほんの少し脳裏を横切った弱音を、声に出して呟いてみた。
本を読むのは大好きだ。
一日中、いや、死ぬまで本だけ読んでろと言われても、自分なら喜んでそれに従ってしまうだろう。
しかし、自分の頭の中に一度読み込んだものを吐き出して書き起こすという行為は、真新しい知識を取り込むことに比べれば、
正直な話、魅力は半減してしまうのだ。

「根を詰めてしまったことだし…ちょっと休憩してもいいわよね」

ここで普通ならば。
外の空気を味わいに行くだとか、お茶を飲んで寛ぐとかになるのだが。
シェスカの場合、休憩という名のつくものでさえ、本を読むという行為に繋がってしまうのだ。

「丁度いいわ。東方司令部から届いた文献に目を通しておきましょう」

未だその目で見たことのない、東部の香りを閉じ込めた本が詰まった大きな箱を、シェスカはわくわくしながら紐解いていく。
途端に鼻孔をくすぐる紙とインクの匂いに、陶然とした表情のまま、中身を確認すれば。

「あら、これ…何かしら?」

真っ先に飛び込んできたのは、燃え上がるような緋色の表紙。
そしてそのタイトルは。

「えっ、『軍極秘』…?」

軍部は外部に漏れることを良しとしない文献を、三段階に分けて保管している。
まず第一段階を『機密』とし、第二段階が『軍機』となる。
そして尤も漏洩に細心の注意を払うものを『軍極秘』と名付けているということを、シェスカはその莫大な知識の中に収めていたのだった。

―――――どうしてこんな物が放り込まれてるのよ!?

物騒極まりない薄い冊子を手に取って焦るだけ焦った後に、シェスカが再びその表紙を点検してみると。

「ん?でもこれって…なんか変だわ」

何よりも造りがちゃちだ。
コピーした紙ををホッチキスで無造作にとめているだけの小冊子でしかない。
そしてよくよく考えれば『軍極秘』の文字は、軍が特別に誂えたスタンプで押されているはずなのに、
これはどう見てもタイプライターで打ち出された文字でしかないのだ。
どうやらこれは質の悪い悪戯でしかないようだ。
ホッと胸を撫で下ろしたシェスカだったが、今度はその中身がどんなものなのかが気になってしまう。

「ま、休憩するには丁度いい薄さだし。まずはこれを読んでみましょうか」

安堵にニッコリと笑んで。
自分を僅かの間混乱に陥れたその冊子に、シェスカは目を通したのだった。


***<抜粋>***

艶やかに濃い睫毛が震えたのが目覚めの合図だった。
ロイ・マスタングは強い酩酊の中から抜け出したあとのうつろな瞳を瞬かせて、ゆっくりと周囲を見回した。
四方を白い壁に囲まれたその部屋には、自分が身を預けているベッドしか置かれてはいなかった。

『ここはどこだ…?』

薄ぼんやりとしか拾い出せない昨夜の出来事を、苛立ちを押し殺してなんとか思い出そうと足掻いた矢先に、
背後から聞こえた声がその記憶が蘇るよりも先にロイに答えを与えてしまった。

『漸くお目覚めですか、大佐。まぁ、あれだけ呑んじゃ仕方ないでしょうね』
『ハボック…?』

そう言えば。
昨夜はハボックに誘われて、軍施設の近くにあるバーに寄ったのではなかったか。

『あんたの呑んでた酒の中に俺がクスリ仕込んでたの、気づかなかったでしょ?迂闊でしたねぇ、大佐』
『どうしてそんなことをしたんだ?』

まだそのクスリの効力が抜けていないのだろうか。
力を振り絞ってみても緩慢な動きにしかならない身体を無理に捻って、ロイは背後に立つ部下を振り返り、その顔を傲慢に睨みつけた。

『その目はなんですか?アンタ、自分が置かれた立場がまだ分かってないようですね』

いつもとは違う酷薄な声。
ゆっくりと近寄ってくる逞しい身体が、いつになく雄の匂いを放っている気がして、ロイは思わずその身を竦ませた。

『目が覚めるまで待ってたんですよ。無抵抗な身体抱いたって面白くないですからね』
『ハボック、何を――――?』

自分の身に起きた出来事を未だに信じられないロイを嘲笑うかのように、両の手首が男の大きな手によって拘束されていく。
熱の篭もった掌にきつく捕まれた手首の痛みが、これが夢の中の出来事ではないということを残酷にロイに伝える。

『大佐、アンタが悪いんですよ。アンタが俺を…』

無防備に誘って、追いつめて。
そうして気がつけば、こんな惨めな欲のぶつけかたしか思いつかなくて。
それでも。

『いやだっ!ハボック、やめ…っ』

それでも、どんなに惨めでも。
やめられない。
そう…こんなにもアンタが欲しいと思いつめてたんですよ、俺は。
知らなかったでしょう?だから。

『アンタが悪いんです。諦めてください』
『んっ…う』

掴みしめた手首を無理に引いて、ハボックはロイの唇を自分のそれで塞いだ。
拒否する声をこれ以上聞きたくなくて。
その吐息を、直に受け止めたくて。

『あ…ああっ、ハボッ…ク、や…』

先に緩めていたロイのシャツに手をかけて、引き千切るような乱暴さで毟り取ったハボックの目の前に、しなやかな上半身が露わにされる。
欲望に翳む目に飛び込んできた眩いばかりの白さは、ハボックの熱を煽るには充分すぎるものだった。

『ふ、あっ…ん』

息を荒げて上下する白い胸に咲いた飾りに誘われるように、ハボックはそこに唇を落とした。
唾液を塗り込むように舌で転がせば、甘い吐息を零して鮮やかに身を撓らせる。
元々が感じやすい性質なのか、それとも―――――。

『慣れてるんですね…相手はヒューズ中佐ですか?』

暗く掠れる嫉妬の声を隠すようにして、尖った胸の飾りから唇を外すことなくハボックはロイに問い掛ける。

『あ…ふっ』

抵抗しながらも、快楽に溺れはじめた白い身体を抱き締めて、ハボックは聞こえるはずのないロイの答えを待ち続けた。


***<抜粋ここまで>***


「シェスカさん、シェスカさん!」
「はいっ!?」

貪るように読み終えた冊子を手にしたまま、白昼夢に耽っていたシェスカを現実に呼び戻したのは、
先ほど東方司令部からの荷物を届けてくれた、若い衛兵の声だった。

「さっき東方司令部から連絡が入ったんですが」
「ええ、何かしら?」

吹き出す汗に額を光らせて、シェスカはニッコリと微笑む。

「先ほどお届けした荷物の中に、私物の本が紛れ込んだらしくて。大事なものだそうですから至急、送り返して欲しいそうなんです」
「あらあら、それは大変ね」
「赤い表紙の、薄いコピー本らしいんですけどね……あ、それ?」
「あ、ああ、偶然ね!これみたいだわね!あは、あは―――――」

見咎められて、またしても零れ落ちる汗を拭うことも出来ずに、シェスカは若い衛兵にその本を手渡した。

だが、やはり彼女は只者ではなかったのだ。
本を手渡すと同時に、憲兵に囁いた言葉は。

「ごめんなさい。悪いんだけどその本の続きがあるかどうか、内密に本の持ち主に尋ねておいてくれないかしら?」


――――シェスカ、禁断の世界に目覚める。


「パルプ・フィクション」クェンティン・タランティーノ監督・アメリカ


(2004.2.19 初出)  


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