猫の棲家(bQ6 尻尾)


もうとっくに夜の夢からは抜け出たはず、だった。
スッと羽で撫でられたような、微かにくすぐったい感触を脇腹に感じてゆっくりと目を開ける。
ここがどこだかなんて、寝起きで虚ろな頭でもすぐ理解できた。
間違えようが無い、いたる所に染み付いたタバコの匂いを嗅げば。

「ん・・ハボック・・か?」

ひりつく喉が絞り出す掠れた声で、情けないほどぎこちなくその名を口にしても返事は無い。
それなのに、目覚めの引き金をひいたあの皮膚をくすぐるような感触が再びわき腹の傷跡に落ちてきて、飽きることを知らない無邪気さで、
閃光のような形の、わずかに盛り上がった場所を行き来する。

やめてくれ、そこは。
再生された皮膚が、あの日裂けて疼いた肉を隠している。
一度痛みを知った場所は、触れられることを恐れるようにより一層に敏感になっている。
だから、そんなため息のような愛撫が、一番苦しい。
いっそのこと、昨夜のようにこの傷跡に噛み付いてくれたほうが数倍も楽なのだ。

その痛みに、おぼれることが出来るから。

「やめ・・・っ」

規則正しく繰り返されるリズム。
押しとどめれば、それは簡単に止めることが出来るはずなのに、なぜか私はそれをせずに、開いた瞳の上に両腕を交叉させて、
執拗に繰り返される浅い責め苦のような愛撫をやり過ごそうとした。
視線を向ければそこに在る者の正体を簡単に知ることが出来るだろう。
けれど私はそれをしなかった。
そうすることが少し怖かったのだ。
年端もいかぬ小娘でもあるまいに、このベッドの上に自分とハボック以外の存在が乗っかっている、それが許せないだなんて。
そんな執着を自分が持っていることを、見せ付けられるのが我慢できなかったのだ。
だが、そんな思いを汲むことをしない何かは、飽きることなく単調な動きを繰り返す。
ごく軽い感触なのに、なぞられる傷口が開いてしまうような錯覚に、呻き声をあげそうになって、唇を固く噛み締めた、その時。

「大佐、朝飯の用意が出来ましたよー。今すぐ食いますか?それともシャワーが先っすか?」

何も知らない晴れやかな声が、扉を開ける音と一緒くたになって、耳に心地よく響き渡る。
ああ、この声は―――――私だけを呼んでいる。

「大佐ぁ、もういい加減起きてくださいよ」
「う…」

まっすぐに覗き込んでくる気配に顔を覆っていた腕をどければ、少し霞んで見える視界の端っこに映ったものは、
ピンと天を向いた黒くてふわふわとした猫の尻尾。

「おはよーございます、大佐。ちゃんと目ぇ覚めましたか?」
「…ああ」

逃げてしまったのか?
見開いた私の目の、至近距離で揺れる金色の髪の持ち主以外の気配は、この部屋の中から既に消え去っていた。

「ハボック」
「はい?」
「おまえ、いつの間に猫を飼っていたんだ?」
「は?」

猫は家に懐くと言う。
きっと見ず知らずの私が飼い主の寝床に潜り込んでいたことが気に入らなくて、痛みの気配が残るこの傷口を執拗に攻撃していたのだろう、
あの器用に動く長い尻尾で。

「もしかして…アンタ、まだ寝ぼけてるんですか?」
「失礼な奴だな。私はとっくに目覚めていたぞ」

なぜか呆れたように私を見つめている男に言い返した声は、もう無様に掠れてはいない。
それなのに、いつまでたっても男の顔に張り付いている表情は消えることはなかった。

「お言葉ですが、大佐。俺は今も昔も猫なんて飼ったことアリマセンよ」
「隠す必要は無い。さっき見たんだ、猫の尻尾を」

まじまじとこちらを見つめている視線に、戸惑いの色が混じっていることを察知して、いぶかしく私は眉を寄せた。
見かけよりもずっと敏い男は、私のその表情をゆっくりと深く受け止めて。

「そんなのいやしません。もう既に気難しい猫がここに入り込んでるんですから、もう一匹住まわす甲斐性なんて俺にはありませんよ」

そう告げた声は、何故かひどく静かで優しい。
その声だけを聞けば、用心深い猫さえも安心してゆったりと腹を見せて寝そべってしまうだろう。
そんな甘いだけの男じゃない、それが判っていても、きっと。

「さぁ、腹を減らした猫の為に、朝メシ用意してるんです。そろそろベッドの中から出てきてください」

そう言いながら、起き上がろうとした背中を支える為に伸ばされる腕。
計算することを端から放り投げているのに、的確な場所に届くそれに半ば呆れながら、私は眠い目を擦る仕草で、額を擦り付けた。

「大佐?」
「煩い。しばらくこうしていろ」

幻の猫さえ誘われて忍び込んでくる、ここが私の気に入りの棲家だ。



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