「Naming」(8名前を呼んで)


「微妙ですよねぇ、コレは・・・」
「微妙・・・どころじゃないわね、特にあなたには」

手にしていたクリーニング・ロッドを作業台の上に置き、声を立てずに笑ったのは金髪の女性中尉だった。
微笑みと表現するにしては、ほんのりと苦さを含んだその笑みと、正直な意見ににつられ、彼女の淡い金の髪と比較すれば少しだけ色味の強い短い
髪の毛を自らの手でかき回しながら、長身の少尉は唇に軽く挟んでいた、火のついていない煙草のフィルターを噛んだ。

「そうっすよね。実は俺、昨日の夜寝る前にこの名前を三度繰り返して呟いたら、急に笑いがこみ上げてきてなかなか寝付けなかったんすよね」
「それ…わかるような気がするわ」

自分の体重の四分の一以上の重さはあるだろうライフルを、片手で軽々とハードケースに収めた彼女は、今度は心から哀れむ表情を見せながら、
静かにケースの蓋を閉めた。

「まぁ、それでも俺たちに舞台を踏ませてくれるって…それだけでも御の字、ですかね?」

目の前に立つ彼女に問いかけるというよりも、独り言に近い呟きを吐いて、たったひとつだけブラインドを引き上げられた小さな窓に視線を向けた。
茜色が混じり出した雲路を、細く群れて飛ぶ鳥たちが渡っていくのが見える。
今日は風が強いのだろう、巣に急ぐ彼らを飲み込むかの勢いで、うね雲が波打っていた。
その景色は、自分達がこれから飛び込んでいく混沌に少し似ているのかもしれない。
闇に追いつかれる前に、たどり着かなければならないと彼に教えられた場所は、まだ自分にはボンヤリとも見えてはいないくせに、なぜかそう思う。

「せいぜい、舞台の上でセリフを間違わないようにしましょう、お互いにね」

落ち着いた声は相変わらずだったが、彼女の細くて形の良い、それでも銃タコがしっかりと目立つ手には、私物のブローニングが握られていた。

「手入れはこれで充分でしょう。でも、このタイプの銃は長距離の連射には向かないわね」
「やばくなったら逃げますよ」

礎という名の犬死になど、するつもりはさらさら無なかった。
何よりも、それを望んではいない人が居る。
こんなところでさっさと戦線を離脱する奴など、彼には必要ないはずだから。
そうして今ではそれが一番恐ろしいことだったのだ。
今の自分の立ち位置から転げ落ちてしまうことが―――――。
そこまで思いつめるほど堕ちた自分を誰が嗤おうが、そんなことはもう既にどうでもいいと思えるほどには、
いつでも視線が追う対象が居るという幸福を自分は味わっている。

「それに後方には凄腕が控えている・・・そうでしょ?」

それには応えず、口角だけを綺麗に引き上げて、彼女は手にしたブローニングのスライド部を真摯な手つきで引きあけている。
涼しげな目元と、形の良い小さな唇を持つ彼女の風情は、他とくらべるまでもなく勝利の女神といった趣きだったが、それにも関わらず、
スコープ越しにより一層に輝くだろう、そんな瞳を持つ彼女は自分にとってはライバルに他ならなかった。

「少尉、今日からあなたは暫く定時あがりでしょう?もう・・・時間よ」
「ああ、そうっすね。じゃあ、俺はこれであがらせてもらいます」

少しだけ砕けた敬礼をしたあとに、スライドをきっちり閉めた銃を手渡される。
45口径のしたたかな手ごたえは、自分の掌に怖いほど馴染んだ感覚。
血の重さをも加えて、ズシリと心臓にまでその重量が届きそうだった。
このご時世では、ある意味当たり前になりかねない、生き抜くための本能と、殺すための衝動の生臭さに溺れそうになっていた自分を、
この重さが思い出させることが今でもあるのだが。

「ご苦労さまでした・・・ああ、それと」
「なんでしょう?」
「任務外では何があっても労災はおりません。心しておいてね」
「了解しました。貧乏くじは絶対に引きませんよ、俺は」

今は生きていれば見られるかもしれない、高い理想の為に。
生きて、生きて、醜いほど生き延びて、自分たちはあの背中に付いていく。



茶色い紙袋いっぱいに買い込んだものは、手づかみで食べられるジャンクフードと、ボトルに入ったミネラルウォーター。
いやでも眠りに導く酒の類はあえて無視したあとにカートに放り込んだのは、これだけは手放せない水色のパッケージを1カートン。
大佐クラスになると、官舎の他にこんなぼろアパートメントなど、建物ごと借りたところで痛くも痒くもないのだろう。
そんなことを考えながら、軍服に忍ばせた煙草のパッケージの最後の一本を銜え、火をつけてから路地裏に面した崩れ落ちそうな建物の中に入る。
そこに閉じ込められているのは眠らない魂が織り込まれたがらんどうと、そいつを見張ることを命じられた几帳面な同僚だった。
仕事帰りの差し入れだと、抱えた紙袋の中からフィッシュ・アンド・チップスの包みとミネラルウォーターを一本、
疲れを癒すためのチョコレートを一枚差し出しながら、疲労の影が浮かぶ同僚と世間話のひとつふたつを交わしてから、
振り向くことなくその場を立ち去った。
けれど、扉を閉めたあとに向かうのは家路ではなく―――――

「くっそ…黴くせー。椅子のひとつもねぇのかよ」

過去に叩き込まれたものをなぞりながら、音をたてることなく忍び込んだ場所の床一面に散らばる古い新聞紙の切れ端を足で軽く蹴飛ばして、
それと一緒に身に着けていた軍服を手早く脱ぎ捨てていく。
高く蹴り上げるつま先の向こうから、漸く灰色の床が現れる。
そうしてそこに無造作に置かれた黒い布を摘み上げてみれば、それは特務機動部員に配給される戦闘服。

「うわっ、なっつかしー」

本当は懐かしむにしては、痛くて暗い思い出の場所だった。
しかし、そこで泥に塗れてはいつくばった過去があるからこそ、今の自分が存在するのだと自らに強く言い聞かせながら、
拾い上げたばかりの黒衣を素早く身につけていく。

「よし、完璧」

特殊な布地から伝わり蘇る過去、それに囚われぬようにとでもいうように、金色の頭をゆさりと振ってからフルフェイスマスクを額まで下ろし、
冷たい床に腰を下ろす。
条件反射のように腕に填めた時計に目をむければ、彼との約束の時間は既に5分ばかりが過ぎていた。

「ま、いいけどね・・・」

諦めにも似た呟きは、それでも期待を濃く孕んで乾いた唇から零れ落ちていく。
寂しいと思うのはきっと、きつい香りを放つ紙の感触が唇に触れないせい――――。
だから憑き物を落とすように、足元に置かれた紙袋から、水色のパッケージを取り出そうと手を伸ばす。
ガサゴソと乾いた紙の音に次いで、シュルリと薄いフィルムを剥がす音が静かな部屋に満ちた、その直後だった。
カタリと鍵をかけたはずの扉のノブが微かに回りだす。

「ジャクリーン?」

囁くように呼ばれたのは、今はくすぐったさしか覚えない、可憐な女性の名。
けれどその声に呼ばれ続けて、慣らされるように馴染んでいくのだろうその名前の余韻を、黒装束の男は貪るようにその聴覚に深く刻み込んでいく。


それは唯一、あなたを護るための名前だから。



←お題



SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送