リリー(313 リリィ)


ここの環境は、まぁ日中は悪くはないと思う。
ワンベッドルームの間取りは一人身の男には充分すぎるスペースだったし、いざという時の為に家具付きの物件を押さえた堅実さも賞賛に値する。
勤務先である司令部までは徒歩20分。
その道すがらには、小さいながらも芝生が美しい公園があり、植樹されたコナラの木立と共に、優しい緑を近隣の住人に分け与えていた。
そしてその公園を挟んだ、通りの向こうにあるのは―――


「ハボック少尉、お目覚めかな?」

涼やかにハボックを呼んだ声は、聞きなれた上官のものだった。
凛としたその音域は、きっちりと着込まれた軍服と揃いのように、彼の本性をひた隠すための武装のひとつなのだ。
けれどこの部屋で、このベッドの上で、その張りのある声を耳にしたことは、ついぞ無い。
どういった力が作用するのか、ここに一歩足を踏み入れた途端に、彼は尊大な子供に変身してしまうのだ。
だから。

「どうしたんですか、大佐!何か…」

有事が発生したのではないかと、ハボックは掛け布団を蹴り飛ばす勢いで跳ね起きた。

「おはよう…とは、とても言えない時間だぞ」

いつの間にか引き上げられていたブラインドは全開で、ヤニのせいで少し曇ったガラス窓には、白々とした昼間の太陽の光が照り付けていた。

「あれ…?」

眠りから覚めてすぐの回らぬ頭ながら、素早くベッドから降りたハボックだったが、彼を覚醒させたその声の主は、ダイニングキッチンから持ち出した
椅子に座りこんで、動こうとはしなかった。

「寝坊か?まぁ、今日は非番の日だから構わないが」
「えっと…何かあったんじゃないんスか?」
「何かとは、何かね?」

取りつくしまもないということは、こういう状態を指すのだろうかと、ハボックは戸惑いながらロイを伺い見た。

「いや、なんとなく…いつものアンタらしくないな〜って思いまして。それにアンタ、どうしてここに居るんですか?」

やや俯き加減の白い面は、粗が目立つ自然光にもろに曝されていたが、男にしては充分すぎる肌理の細やかな肌は、
ダークグレーの下着を見につけただけの自分の姿を恥じるほどの、清潔さをかもし出している。
魔物の本性を隠す器としては最上級だと言えるかもしれない―――そんなことをボンヤリと考えながら、ハボックはナイトテーブルの上に置いていた
ボトムを手に取った。

「私は夜勤明けだ。官舎に戻る途中にここへ車をつけてもらった。ところで、私からもおまえに質問をしてもいいかな?」
「はい?」

カーキ色のワークパンツに片足を突っ込んだままのハボックが、硬い声で訊ねてくるロイに再び目をやると、依然として俯いた顔を上げようとしない
彼は、長めの前髪でその魅惑的な漆黒の瞳を隠していた。

「なんです?」

そう問うたあとに、零れ落ちる黒髪に誘われてロイの足元に視線を向けると、そこには。

「あ…それ…」
「そう、これだ」

漸く気づいたか…と、上目遣いでハボックに視線を合わせ、ロイは唇の端だけで微笑んでみせた。

「むさ苦しい男の部屋には似合わないものがあるが、これはおまえが使うのか?」

漆黒はハボックを捕らえて離すことなく、椅子に座った腰を折り、ロイは右腕を床に伸べた。
先の細い指が軽く摘みあげたシロモノの華やかな色彩は、花束というよりも幾重にもかさなった絹で出来たドレスのようで、
少々目のやり場に困ってしまう倒錯を感じさせる。

「あー、それはですね…」

素早くボトムを引き上げて、ハボックはうろたえた青い瞳をシミの目立つ天井にさ迷わせた。
口を開くたびに、昨夜のアルコールの残り香が鼻につく。
その匂いに導かれて、ハボックの頭の中に昨夜の思い出がずるずると這い出してきた。


翌日が非番の自分と日勤だったブレダは、珍しいことに二人揃って退勤時間前に業務をすべて完了させていた。
それを祝うわけではなかったが、その後の予定の無い者同士、示し合わせて久しぶりに馴染みの飲み屋に顔を出したのだ。
財布に優しい銘柄の酒と、親しみやすい賑やかな女の子たちを揃えたその店は、若い軍人たちの溜まり場になっていた。
そんな場所だったから、何ヶ月ぶりかに訪ねてきたハボックとブレダも、途切れた時間を埋めることを心配する暇もなく、
既に盛り上がりつつあった一団に違和感なく紛れ込むことが出来た。

「あらー、久しぶりに見る顔ね。将来有望な上司に連れられて、気取った店の常連になったのかと思ってたわぁ」
「うちの上司は公務も忙しけりゃ、プライベートの方もお忙しいのさ。それもトップシークレット任務らしいから、お供もさせちゃくれねーんだよ」
「じゃあ、アンタ達も負けずに機密業務を作ればいいじゃない」
「そんな暇ねーんだよ。あの上官の下に居るかぎり、俺達はいつまでたっても女にゃ縁のない日々が続くんだよ。なっ?」
「ん…ああ、確かにな」

女っ気の無さを全て上司のせいだと嘆くブレダは、証人を求めるようにハボックに話題を振ってくる。
それに相槌を打ちつつ、ハボックは手にしたロックグラスを軽く揺らした。
――――嘘じゃないよなー…。
確かにハボックの周りから、女っ気が無くなって久しい。
だが掌の熱で暖められたグラスの中の氷がグズグズと溶けていくように、今までの自分の価値観を崩し落とした人物に、
現在進行形で捕まっているのも確かなことなのだ。
冷やし固めたところで、もう元通りには復元できない情熱のひとしずく。
それに模して、ハボックはグラスの底に残っていたウィスキーを喉に流し込んだ。

「もう一杯いかが?」

空になったロックグラスをカウンターに置いたと同時に、ハボックの耳に聞こえたのものは気だるいアルトだった。

「ああ…」

いつの間にか、カウンター越しでハボックと向かい合うかたちで女が立っていた。
細面を縁取る、艶のあるブルネットの結髪からこぼれる後れ毛が、しどけなく男を誘う風情が悪くない。

「じゃあ、もう一杯」

自分の体温を知らしめるように、花の色を散らした爪が美しい指をハボックのそれに僅かに絡めて、女は差し出されたグラスを受け取った。

「若い少将さん、せっかくの男前なのに仕事ばかりじゃ勿体無いわね」
「そーなんだよ。哀れなもんだろ」

あからさまな下心を込めた流し目とともに、明るく絡んでくる女たちとの会話は決して嫌いじゃない。
それどころか、少し前までは出された皿の上の料理を、殆どの場合は美味しくいただいていたぐらいなのだ。

「本当にね。慰めて欲しいって顔してるわ」

丸いロックアイスに向けてウィスキーを注ぐ女の手に、そのまま自分の手を重ねれば、彼女をお持ち帰りできないこともないだろう。
――――ああ、勿体ねぇ…。
柔らかな胸、赤い唇、肌に纏った甘い香り、それらは未だにハボックを誘ってやまないけれど、それよりも刺激的なものがあることを
自分は既に知ってしまった。
きつい身体に絞られる快楽と、痛みの次にくる波に漂う、切ない喘ぎを引き出す歓びを。

結局、五杯目の酒で女は痺れを切らした。
へべれけに酔いつぶれたブレダがもたれかかってくる重みに悪戦苦闘しているハボックに、自分を誘う口実を差し出したのだ。

「ああ、金髪の少尉さん、これ持ってかえってくれないかしら?」
「俺にプレゼントしてくれるの?」
「ええ、そう。本当はお客さんに貰ったものだけど、うちでは足りてるから」

正直すぎる告白に苦笑いしたハボックの視界から、一瞬だけ女が抜け落ちる。
カウンターの下に屈みこんで女が取り出してきたものは、酒場の薄暗い照明の中に咲いた、三色の水中花のようなものだった。

「なに…これ?」
「あら、知らないの?」

手渡された華やかな物体を、物珍しげに観察しているハボックに、女は艶やかに笑いかけた。

「それは疲れを取るためのものよ。使い方は私が教えてあげてもいいわ」


「なるほど…な。それでこんなものがおまえの部屋にあったと言う訳か」
女の誘惑を払いのけた昨夜の出来事の思い出せる限りを、ハボックはロイに語り聞かせた。
ただひとつ、悪酔いしたブレダが吐き出した日々の鬱憤の数々だけは、友人の名の元に秘密にしたけれど。

「そうなんですよ。言っておきますけど、俺は彼女からレクチャーを受ける気なんてありませんからね!」
「必死になるところが怪しいな」
「大佐!俺がアンタに捧げた男の純情を疑うって言うんですか?」
「当たり前だろう。男は女よりも純情だと言うのは定説だが、下半身は獣だということも定説だからな」
「そりゃ無いっすよー!」

本気で嘆くハボックを尻目に、ロイは手にした布の花を軽くひと撫でした。
その手つきはひどく繊細な動きを見せてはいたが、それでも本当の花ならば無残に花弁を散らしていただろう。

「大佐、聞いてるんですか?」
「ああ、聞いているぞ。煩い犬が吠えているな」
けれど薔薇の花弁に似た重なり合う布地は、そんな儚い衝撃をものともせずに、ロイの手の中に大輪の花を咲かせたままの姿で抱かれていた。

「ハボック、これは私が貰っておこう。似合わない上に使い道がわからんときては、どうしようもないだろう?」
「別にいいっすけど…?」
「そうか。ありがとう」

犬に喩えられてむくれていたハボックだったが、その怒りが収まらないうちに今度はロイの思いがけない申し出と素直な物言いに、
大きく目を見開かされることになった。
いつもそうだ。
彼の傍に居るだけで、大小さまざまな驚きがオプションとしてついてくる。
時には洒落にならないこともあるけれど、慣れてしまえばそれ無しではいられない。
―――性質の悪いクスリみたいっすよ、アンタは。
どうしようもなくこみ上げて来る笑いを噛み殺しながら、トップを取り出す為にクローゼットに足を向けたハボックに、駄目押しの爆弾が投下される。

「それではその礼として、今から私の家へ招待してやろう。夜勤帰りの私にはランチ、目覚めたばかりのおまえにはブランチをご馳走するぞ」
「本当ですか?」
「ああ。ただしコックはおまえだぞ、ハボック」
「えーっ!冗談でしょ?」

哀れな声で抗議をするハボックをよそに、ロイは手にした人工の花を楽しそうに宙に放つ。
ふわふわと舞い上がり、ふたりの頭上で踊った花が、再びロイの手の中に落ちてくる。

「食事のあとに私がこれの使い方をおまえに教えてやる。その授業代だと思えば高くないだろう?」

よからぬことを企んでいることが丸わかりの含み笑い。
それを識別できる目を持っていながら、その企みに自ら嵌まり込んでしまうこの身が哀れで仕方ない。

「お供しますよ。ですが、お手柔らかにお願いします」
「公用車は司令部に返したから歩いて行くぞ。気を抜かずに護衛しろ」
「アイ・サー」

芝生の美しい、小さな公園を挟んだ通りの向こうに、天国が待っている。



(*ハボックが貰ったものはバス・リリーです…)


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