パシパエー(ヒューロイ)


「悪魔の所業…か」

錬金術師として最大級の罪を背負った綴命の錬金術師<Vョウ・タッカーを法廷に引き渡す使命を受け、
東部地域にやって来たマース・ヒューズ中佐は、降り続く雨に洗われる窓の向こうに視線を巡らせた。
このアパートメントの窓からは、いつもなら重厚な石畳の道と数軒の馴染みの店が見下ろせるはずなのに、
今はしのつくような雨の幕に視界を奪われて何を見ることもかなわない。
東方司令部に籍をおく友の官舎となっている古いアパートメントの防音設備はしっかりとしたもので
ぴたりと窓を閉めてしまえば雨の音どころか車のクラクションさえも聞こえなくなる。
コーヒーカップとソーサーがたてる硬い音と、床に敷かれたラグ上に座った友人が目を通している本のページを捲る音。
静かすぎる部屋に響く自分の大きな声は、まるで聞こえてくるはずのない雷鳴のようなものかも知れないと思いこそすれ、
それに遠慮をすることもなくヒューズは思いつく限りを声に出していく。

「俺ぁ、そうは思わんな。タッカーのやったことは到底赦すことなんてできねぇし、吐き気を催す事件には違いないけどよ」

書物に埋もれた薄暗い部屋で、査定という運命の日に追いつめられた男。
一度目の禁忌に手を染めて、そうまでして手に入れた国家錬金術師という地位を、二年と言う短い期間で失う愚かしさを、
さらに愚かな思慮で埋めようとした彼はあまりにも。

「人間だからこその愚かしさだろーが…ありゃ。確かに前代未聞の事件だがな」

この雨は傷の男≠ノ殺された憲兵の血を奪い去り、住む者の無くなったあの広大な家にも、濡れた気配を忍び込ませているのだろう。
今回の合成獣実験の事実を握り潰すつもりの国家の元で、彼らが生きてそこに住んでいた過去など
すぐに人々の記憶から忘れ去られてしまうことは明白だ。

「人獣混合のグロテスクさに人々は口を閉ざしているだけだ」

分厚い書物に落されていた視線をついと上げて、ロイ・マスタングはマース・ヒューズの独り語りに口を挟んだ。
だが、どれだけ隠そうとしても真実は針の穴をかいくぐって漏れてくる。
どれほど雨が降ろうと風が吹こうと、消え去ることの無い瑕は過去の小さな象徴として、現在に遺される。

「古今東西の文献を紐解いているとな、今回の合成獣事件を思わせるイメージにどれほど沢山出会うと思う?」
「勘弁してくれよ、ロイ。俺はナイーブなんだぜ?今回みたいな事例が鬼みてぇに溢れかえってるなんて考えるだけでうんざりだ」

力なく振り上げられた右腕の、手首から上をひらひらさせて、心底イヤそうな表情でヒューズは物騒なことを言い出した友人の
白い顔を見下ろした。
ロイ・マスタングの、実年齢からいつも5歳以上は下に見られる童顔は、信頼を預けた者たちの前では愛らしいと思えるほどころころと表情を変える。
ロクデナシの上司に溜め息をついていた部下たちも、それを見せつけられて、より深い溜め息の渦の中で色々な事柄を諦めざるを得なくなるのだ。
だが今、人工の光に照らされて浮かび上がる整ったその顔は、石膏で固められたような感情の露見の乏しさで、見つめる視線を冷たく弾く。
焔を操ることに長けた類稀なる錬金術師としての才能を、ただの人間レベルに引き摺り下ろすこの長雨を持ってしても、
拭い取ることの出来ない人間兵器″痩ニ錬金術師の顔。

「安心しろ。ここに出てくるものはあくまで仮定としてのキメラ誕生の可能性でしかない」

音の届かない雷が光り、瞬きひとつの時間だけ青白く部屋を染めて行く。
その光の中、立上がったロイの両方の手はそれぞれ茶色の皮装丁の本と、くすんだ緑にオリエンタルな文様が施された古い巻き物を携えていた。

「黴臭そうな本だな。なんだソリャ?」

褐色の液体が僅かに残るカップの傍にそれぞれを置いて、ロイは椅子に座るヒューズの右後ろに身体を移動させた。

「西方に伝わる神話の本と、極東の地に残されている伝承の事例を書き記した巻き物だ」
「へぇ…どっちも俺の管轄外だな。で、それがどうしたんだ?」

右肩に手袋を外したしなやかな手が触れる。短く摘まれた桜色の爪に、ヒューズは極く僅かな間目を奪われる。
痛みに似た熱が触れられた場所から広がって行く。
触れ合って十年以上たった現在でも、その感覚に慣らされることはない。

「どちらもわりと有名な話だが。件<くだん>≠ニミノタウロス=c知っているか?」
「ああ。ミノタウロス≠フ方は知ってるがくだん≠チてのは聞いたことねぇな」

肩越しにロイの腕が伸ばされる。私服の白いシャツから立ちのぼる仄かな香りが自分の知ったものではないことに微かな苛立ちを感じながら、
整えられた指が古い巻き物を解いていく仕草をヒューズは黙って見つめていた。

「くだん≠ニいうのは、極東の地に争いがおこる度に現われて、その争いの終結の時を告げてから消えると伝えられている異形の者だ」

片手で器用に解いた紐を興味のないもののようにその場に落してから、緑色の装丁を施された巻き物をロイはデスク一杯に広げた。
見慣れない縦書きの、蛇がのたうつような文字とともに現われたのは――――――

「こりゃまた…グロいもんだな」
「そう言ってやるな。争いを終わらせる御告げを持って現われるありがたいバケモノだぞ」
「おまえ…そっちの言い方のほうが酷いって」

小さな黒い瞳と潰れた鼻。開かれた大きな口から除く剛そうな歯。
異様な顔つきにも関わらず、それは紛れもない人間の顔なのだが、それを支える身体は直立歩行を行う人類のものではなくて。

「牛だな」

短い黒い毛に艶やかに覆われた盛り上がった背中と、尻の間から振り上げられた長細い、尾。
逞しい身体の下にある4本の脚には、固く光る蹄が描かれていた。

「ああ、牛だ。顔だけは一人前の人間だがな」

醜い顔にただ一点、黒い瞳に美しい知性の閃きを見せている。
知性があるということがより悲惨な運命を際立たせる、人面獣身の哀れな生き物。
それから目を背けたそばから瞬時にして脳裏に浮かび上がるのは、赤黒い血に塗れた毛足の長いキメラの姿だ。

「こちらはもういいだろう」

そう言いながら何時の間にかヒューズの正面に回り込んでいたロイが、ひょいと手を伸ばして巻き物をひらりと取り上げた。
カサカサと鳴る紙の音を残しながら丁寧にしまわれて行く、くだん≠フ姿。
もしかしたら、あの7年間におよぶ内乱の折りにもどこかに現われて、この絵のように涙を流しながら、戦いの終結を誰かに告げたのかもしれない。
苦い想い出がコーヒーの苦味となって、舌を焼く。

「次はこちら…ミノタウロス≠セ。さっきのくだん≠ニは逆の、獣面人身の神話の登場人物だ」

古の神の国のあまりにも人間くさい物語は各国語に訳されて、この世界のそこここに配布されている。
その中でも有名な勇者になぶり殺しにされた、迷宮の奥に閉じ込められた牛の頭を持つ、クレタの女王が産んだ子供がこのミノタウロス≠セ。

「あれだろ?神に捧げるための牡牛があんまり見事な牛だったから、結局もったいねぇって事で自分のもんにしちまった王様に
神様が罰を下したっていう」
「そうだ。ミノス王の妃・パシパエーは海神の神罰により、その牡牛に恋心を抱きその牡牛と交わった。そうして産まれ落ちたのがミノタウロス≠セ」
「しっかし神様もえげつない事するねぇ。自分の奥さんが牛とエッチしちまうなんざ、到底耐えられないことだわな。くわばらくわばら」

身勝手でささやかな欲望が、ミノス王から大事なものを奪い去った。
愛した妻の心が自分の上を通りすぎて行く寂しさに打ちのめされたあとに知る、妃の恋心を一身に集めている存在が、
自分が神の贄から取り上げた牡牛だったという衝撃は計り知れない。

「西に現われたミノタウロス≠ニ東に現われたくだん=cどちらも人間と牛という共通点がある」

遠く離れたふたつの文化が交流を持つのはまだ先の、神が世界の全てを掌握できた時代に記された文献の中に、
何故こんなにも似た存在が語られているというのか。

「そして彼らには、戦争を終結させる為の媒体、神が下す罰の凄まじさを世に広める媒体という、なにがしかの役目があるってことも共通点かな」

唄うように告げるロイの漆黒の瞳が、閉ざされた部屋の中で昏く煌いた。
ぞくりと背筋を覆う寒さに首を竦めながら、ヒューズは手にしたコーヒーカップをデスクに置いた。

「くだん≠熈ミノタウロス≠焉c誰かの意志で生み出された存在だと?」
「さあ…どうかな。あくまでも私が弾き出した仮定にすぎないが…有り得ないことではないだろう?」

連綿と続く歴史の中で、人類が禁忌を冒すことなく過ごした時代など、どこを探しても見つかりはしないのだ。


禁忌というのなら、自分たちの関係はそれに値するのだろうか?

漸く降り続く雨が小雨になり、窓の外に街の灯りに照らされる店の看板を認めることが出来るようになったというのに、
カーテンの一枚も下ろすこともせずに抱き慣れた身体を後ろから戒めながら、ヒューズは柔らかくロイの身体を覆うシャツの釦を
上からひとつづつ外して行く。
小さな釦は乾いた指先にはかなりやっかいな代物で、じれたヒューズは4つ目を外した時点で強引にシャツを肩から引き降ろした。

「えらく情熱的じゃないか」

情欲を押し殺した低い声でロイがヒューズの行動をからかう。
それに応えることなく、黒いシャツの下に貞淑に隠されていた白いうなじにヒューズは唇を下ろした。
目の前になだらかに広がる肩は、はじめて肌を重ねた少年の頃の儚い骨の感触が勝るそれではなく、したたかな男としてのしなやかさに満ちている。
それでもまっすぐに伸びた滑らかな背中は、自分を充分に欲情させるのだから始末に負えない。

「あ…っ」

綺麗に浮き出た背骨をざらつく舌で舐め上げる。
その刺激にあがる溜め息のような声と一緒に、両方の肩甲骨がピクリと揺れた。

どこまでも自分を捕らえ、自分を赦すこのかけがえのない存在が、いつの日か。
道に迷い立ち尽くす時があれば自分には何が出来るのだろう。
熱く濡れた舌に嬲られ続ける背中に、ひくひくと小刻みに震えて快楽を伝える彼の肩甲骨から黒い翼がはためくのを認めたとしても、
自分はきっと彼から離れることはしない。

ただ彼がいつか手にするであろう大切なものを見失わないように、その大切なものと引換えに間違った道を選ばぬように。
自分はいつまでもこの悲痛なまでに伸ばされた背中を見守って行くのだ。

パシパエーの子供を創り出すことのない世界を、彼に託して。



(2003.12.18 初出)


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