つめたい唇



         「うわっ、冷てぇ……!」
         昨日の雨が破れた天井部分に溜まっているのだろう、上を見上げれば高い屋根のぽっかりと口を開いた裂け目から、無数の星のきらめ
         きが濃い紫の空を隅々まで飾っている様子が見えるというのに、ハボック達が進む先には巨大な廃墟の屋根の窪みに溜まった長雨の雫
         が派手な音を立てながら、壊れたシャワーのように汚れた床に降り注いでいた。
         カンテラの明かりに一層映える、ハボックの金色の髪に先ほどから何度も天井から落ちてくる銀の雫が絡む。
         「あーもう、折角セットしたのに…。いい男が台無しだ」
         「誰がいい男だって?」
         愚痴混じりの独り言を聞きとがめられ、ハボックは額に流れ落ちた雫の一筋を長い指で拭いながら唇を尖らせる。
         「俺のことっすよ」
         「ほう……万年振られてばかりの、いい男か」
         「振られるのは仕事が忙しすぎるせいですよ。ま、人使いの荒い上司の下に配属された有能な部下の悲劇と言ったところっすかねぇ?」
         軽口をききながら内部に進んでいく、二人の軍人が持つカンテラの灯に照らし出される廃墟の内部は、飄々とした彼らの会話の内容とは
         対照的に、容赦ない荒廃がすすんでいた。

         山間地に聳え建つ灰色の廃墟は、数日前にロイ・マスタング大佐が指揮を執ったテロリスト掃討作戦による爆撃や銃弾に蹂躙され、以前
         にも増して人目を惹く異形の姿となっていた。
         ゴシック建築特有の、天に届けとばかりに伸ばされた数本の尖塔は悉くへし折られ、崩れ落ち、張り出し部分に刻まれた巨大なグリフォン
         の翼と鋭利な爪は無残にも抉り取られていた。
         この伝説上の偉大な獣を家紋にした一族には、なにか遺伝的な欠陥があったのか、幾多の狂った支配者を輩出した。
         この城を建立した城主にも数々の異様な逸話が地域の伝承として残っていたが、夜な夜な城壁から抜け出したグリフォンの漆黒の翼に 
         乗って、暗闇の中に浮かび上がる巨大な城門の上で処女の生き血を啜っていたのを目撃されたなどという、御伽噺としか思えない噂話が
         未だに残っているあたりが、近代化から遠く離れた山間地域の閉鎖性と、そこに暮らす小作人たちの支配者に対する行き過ぎた畏怖な 
         どを物語っていた。
         だがその長閑な噂話のすべてが、闇夜を恐れる村人たちの想像が生み出したものでは無い事も事実だった。

         ―――月に一度の割合で、子供が消えていく。

         この地方の司法を司っていた検事局長が残した記録文書によれば、その当時、城下で行方不明になった子供の数は百人を優に上回っ 
         ていたという。
         深いグレーの砂岩によって建造された、装飾過多の鬱蒼たる城。城主が絶えた後、歴史的な建造物であるにも関わらず、一度も他人の
         手が入ることなく荒れるがままになっていたのも、その城にまつわる禍々しい史実があったからなのかもしれない。


         「この前にここに足を踏み入れたときには気付かなかったんですが、よくよく見れば……哀れを催すほど荒れ放題ですね」
         いくら木々を伐採したところで開発が追いつかない暗い森の中の不気味な廃墟に出入りする者など限られている。
         延々と続く渡り廊下の残骸、そしてかつてその廊下を壮麗に覆っていたアーチは見る影も無く崩れ落ちていた。
         ほぼ吹き曝し状態の渡り廊下は雨風の浸食が激しいせいか特に痛みが目立つ。足元を見れば多くの亀裂が地図の上の大河のように枝
         分かれしながら走り、残された数本の円柱にはビッシリとミミズが這うような落書きが刻み込まれていた。
         「何が書いてあるんでしょうね」
         ロイの気まぐれにつき合わされ、夜明け前の廃墟などという不気味な場所に入ってから初めて見つけた人の痕跡。それにハボックは反応
         して一番身近にあった円柱にカンテラの灯を近づけた。
         「何が書いてある?」
         人恋しさは彼も同じだったのか、それともこれも単なる気まぐれなのか、円柱に顔を近づけてそこに書かれた荒れた文字を読み取るのに
         四苦八苦しているハボックの傍に、ロイが近づいてきた。
         「んー、待ってください。こりゃあ、俺の字より数段ヘタクソだわ」
         そう呟いてハボックは眉間の皺を深くして目を凝らした。

         そこに刻まれていたものは、ありとあらゆる祈りと、あらゆる呪詛。そして何よりも心に迫る―――幾多の人の名前。

         「これって…この前、俺たちが捕獲した奴らが書いたんでしょうかね?」
         目の前に深く刻まれている女の名前を指でなぞりながら、ハボックはいつの間にか自分の横に立っていたロイを見つめながらそう訊ねて
         いた。
         「そうだな、彼らが書いたものもいくつかあるんだろう。だが……」
         ハボックの持つカンテラの明りがゆらゆらと揺れながら、今度は傍らのロイを照らす。琥珀色に染まるロイの肩の向こう側に、無数の影が
         揺れるのを見たような気がして、一瞬だけ目を見張ったハボックだったが、次の瞬間にはそれらの気配は霧散し、それが廃墟が見せた幻
         だったことを知り胸を撫で下ろす。
         けれどそれに安堵する間もなく、いっそう遣る瀬無い過去の無残をハボックはロイの指摘によって知ることになるのだ。

         「もっと古いものも残っているぞ。ほら、そこを見たまえ……ハボック少尉」
         短く摘まれた清潔な爪が目立つ、ロイの先細りの指がハボックの太ももあたりを指差し、止まる。
         アリス、革命、ジェーン、ロザリー、ファック。
         自由を我らの手に、マデリーン、打倒・軍部、イザベラ、ミランダ――。
         廃墟に潜んでいた者たちの理想と欲望、彼らの宝石の名前が無数に刻まれた円柱の下側にそれはあった。

         『ママ』

         たどたどしい筆跡で書かれたその短い文字は、丁度子供の顔の高さくらいの場所にひっそりと残されていた。





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