今を生きる


無意識に歌を口ずさみたくなる、そんな晴天に恵まれた外出許可日だった。


「ヒューズ、もっとスピード出せよ!」
「馬鹿野郎、これでいっぱいいっぱいなんだよ!」

集まる視線の痛さに、声が尖る。
伸びすぎた前髪を嬲る風のせいで、顔が露わになるたびに俯いてしまうのは、信じがたいこのシチュエーションのせいだ。

「絶対にこけるなよ!こけたら燃やす!」
「うへぇ、ロイくん、横暴。なんなら代ってやろうか?」
「ごめん被る。おまえが誘ったんだから、おまえが最後まで責任を取れ」

なだらかながら長く続く坂道に、ほんの少しだけ息を上げてヒューズが笑う。
両肩に置かれた手指に不自然なほど力が篭もっているのは、ヒューズの後ろに居る男が、こんな状況に全く慣れていないからだろう。

「運動したあとのメシは美味いぜ?」
「そんなことしなくても、最初からバルマンの作ったサンドウィッチは美味い!」

国軍に倣った鮮やかな群青の制服を身につけた少年たちが、風の速さで駆け抜けて行く。
その珍しさに道行く人々が目を丸くして振り返るのも、それを気にして余計に不機嫌になっていく友人も、
ご機嫌にペダルを漕ぐヒューズの行動を阻むものにはならないらしい。

「せっかくいい天気に恵まれた上に、楽してピクニックに出掛けられるんだから、もーちっと喜べよな」
「こんな状態で何を喜べと?」
「時間の短縮の為だ。門限に間に合わないとマズイだろ?」
「そんな時間までおまえに付き合う気はないぞ!」

何が哀しくて、花咲く森の中まで、男同士の自転車ふたり乗り。
今は見下ろすかたちのヒューズの頭を叩く勢いで、怒鳴るロイの声が野鳥の囀りに紛れて消えていく。

「ほら、もうすぐ着くぞ」

自転車の前カゴには、士官学校食堂の至宝・コックのバルマン手製のサンドウィッチを詰めた箱と水筒。
それらを揺らしながら、ヒューズがペダルを回転させるたびに緑の気配が色濃くなっていく。

石の精霊が眠る場所まで、あともう少し。



昼なお暗い場所に、どんな物好きがこんな物を遺したのか。
それは誰も知らない。

「凄いな…」
「だろ?本来ならもっと観光化されてもいい筈なんだが、こいつらの場合…見た目がな」

切り出された天然の岩を刻んで作られたのは、叫ぶ声が森の中に永遠に木霊しそうな、大きな口を開いた老人の顔だった。
その斜め後ろに控えているは、とぐろ巻く大蛇に締め上げられて苦悶の表情を浮かべる巨人の像。
水涸れしてひび割れた噴水の中央に佇むのは、大きな乳房をたわわに実らせながら、男性生殖器さえ欲深く携えた美貌のアンドロギュノスの彫像だ。

「静か過ぎる」
「動物も鳥も怖がって寄り付かないって話だが、満ざら嘘でもなさそうなところがスゴイよな」

初めて目にする怪物の森に気をやって歩き回るロイとは正反対に、ここにたどり着くまで重い男の身体を後ろに乗せて
自転車を漕ぎ続けていたヒューズは、ちょうど洞になっていた巨大な老人の口の部分に、自転車までをも引きずり込んでペタリと腰を下ろした。

「疲れたなぁ、ロイ、飯にしようぜ、飯!」
「まだ腹は空いてない」
「おまえは汗だくの俺の後ろで、ボーッと突っ立ってただけだもんな」
「遠慮せずに先に食えばいいだろ?」

自分の背の高さとほぼ同じ高さの、翼の部分が折れてしまったペガサスの像を撫で擦るロイは、食欲よりもまずは探求欲を満たそうと、
森の中を探索して回る。

「おーい、本当に先に食っちゃうぞ?」
「ああ。でも全部食うなよ」
「おまえもあんまり遠くに行くなよ」

そう言いながら、サンドウィッチの入った箱に手を伸ばしたヒューズに背を向けて、ロイは古い落ち葉が堆積された湿った森の奥へと進んでいく。
常緑樹の濃い緑が続く道の端から時折感じる視線も、グロテスクな形の虫や、猛禽を模った彫刻たちのものだ。
落ちた枝を踏んだ音さえやたらと大きく聞こえる静かな空間。
初めて見るもの達に意識を奪われて、歩いてきた道をふと振り返ると、もう既にヒューズの気配も届かない場所までロイは踏み込んでいた。
かさこそと葉叢を揺らしながら、風が吹きぬけて行く。
それはヒューズの肩に掴まりながら、自転車の後ろに立って受け止めたものとは全く違う、冷たい風だった。

「ヒューズ」

温もりを求めるように、声に出さずにロイは唇だけでその名を形作った。
道に迷った子供の心許ない行動。
無意識のそれに気づいて、ロイは心細さを振り切り再び足を踏み出した矢先、緑に遮られていた狭い視界が急に開けた。

「何…?」

常緑の森がほんの一部分だけだが、陽光を遮る樹を故意に誰かが焼き払ったように途切れていた。
ぽっかりと覗いた空から降り注ぐ光に照らされた地面の四隅を、それぞれ異なる形の石像が聖地を護るように置かれている。
虚ろに何もない場所を囲む者たちは―――――ノーム、シルフィー、ウンディーネ、サラマンドラ。
地・風・水・火の四大元素を体現したその像達が、迷い込んだロイを静かに見下ろす。
冷ややかに、軍の為に錬金術を使うと決めたロイを糾弾するように。

「ロイ!」

もの言わぬ石像たちの眼差しに足を掬われて、ぐらついたロイの意識を引上げるかのように、背後から力強い声が投げかけられる。
それは何時の間にか身体の奥に染み込んだ、どんな雑音の中でも拾い出せるに違いない、深くて愛しい声色だった。

「ヒューズ…?」
「あんまり遠くまで行くなと言っただろ?怪物に食われちまうぞ」

一人きりの場所から呼び戻されて、ロイは漸く詰めた息を吐き出した。
震える身体に伸ばされた温かい腕。
そこに抱き留められる心地よさに、目を瞑って身を預ける。

「まぁ…俺が傍にいる限りは、いつでも呼び戻してやるがな」

未だ細かく震え続けるロイの唇に、暖かな息を送り込むようなキスを落とした後に、ヒューズは零れ落ちてくる陽光の眩しさに目を細めた。

ふたりで見上げた空は、いつもと変わらぬ穏やかな青だった。



「ヒューズ、おまえのキス、卵サンドの味がしたぞ」
「あ?そりゃおまえ得したじゃねーか。美味いもんのお裾分けだ」

何気ない指摘に、途端に泳ぎ出したヒューズの視線を認め、今度はロイの目がすわる。

「…おい、ひとりで全部食ったんじゃないだろうな?」
「いやー、あんまり腹が減ったもんでな、つい…」
「ヒューズ、おまえなぁ…」



そんな小さな出来事の積み重ねが、今を生きる為の糧になるなどと。
まだ知るよしもない、ふたりのエピソード。


「いまを生きる」 ピーター・ウィアー監督・アメリカ


(2004.2.28 初出)  


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