手(27.キラキラヒカル)


「すまんな、せっかく来てくれたのに。グレイシアの調子がなかなか戻らなくてな」
「構わんさ。日ごろお前の世話を焼いてくれているんだ、こんな時ぐらい労ってやれ」

コーヒー用にしてはやけに口の広いカップをロイに手渡すヒューズの表情は、体調の優れない妻を心配しつつも、どこか柔らかで、晴れやかだった。
この家に灯りがついてから既に一年たっていたが、ヒューズ夫妻が入居する前に張り替えられた白い壁紙は、
まだ殆どが無垢な色を誇らしげに人目にさらけ出している。
特にこの、呼び鈴を鳴らしてから暫くもせずして背中を押されながら通された部屋は、目に沁みるほど清潔で、静かな愛情に満たされていた。

「おい・・これ、濃すぎるぞ」
「ん、そうか?」

そう、何もかもが濃すぎるのだ。
カップの中のコーヒーも、この家を、部屋を行き来する、ほんのりと温かい空気の密度も。

「それにな…おまえ、これはティーカップだ。奥方の家事の手伝いも出来ないようでは、いつか愛想をつかされてしまうぞ」
「心配するなって。俺はグレイシアとこの子が帰ってきてからというもの、家の中でも外でもいたるところで大活躍さ」

きっと口元には笑みを浮かべているに違いない、晴れやかなヒューズの声はロイに対して逐一応えを返してくるけれど、
その深い瞳の碧を捕らえて離さない存在は他にあった。
白い部屋の隅に置かれた小さなベッド、その中に護られている、より小さくて力強い生きもの。

「なー、ホントに可愛いんだぜ?」

ゆっくりと驚かさぬように、神経を張り詰めさせた若い父親の手が、生成りの木綿にくるまれた生まれたばかりの生命を抱きあげる。

「ホラ見ろよ、抱っこする手つきも堂に入ったもんだろう?」

漸く振り向いた男の大きな手の中にすっぽりと納まってしまうほどの儚い体は、それでも何かを掴む仕草で、
人形のような拳をぴくりぴくりと動かしている。

「ああ。ちょっとは父親らしく見えるな」

決して清らかなだけではない男の手の中で、バタつく手足。
セントラルの重く垂れる曇り空もでさえも、遮ることの出来ない眩い光景にロイは微かに目を細めた。
無条件に愛される者の強さに、押し潰されそうだった。
それなのに、どうしてこの男はこうも押し付けがましいのだろう。

「おまえにもエリシアを抱っこしてもらいてーんだ。ホラ、ボーッと突っ立ってないで、こっちに来いよ、ロイ」

ふにゃふにゃと単調な動きながら、生の証を身体全部で訴えている赤ん坊を、どうやって扱えば良いのか、全く予想もつかない自分の名を呼ぶ声は、
いまだに深く心に響くのに。

―――厚かましさもココに極まれり、だ。どのツラ下げて、俺を呼ぶ?

呼び合う同じ血の半分と、優しく聡い女の血の半分が循環する、熱い小さな身体を抱いているくせに。

「大事な赤ん坊を落っことしても知らないぞ」

それなのに、ふらふらとその声に手繰り寄せられる自分は、全く持って救いようが無い。
そうして恭しく差し出された身体は、手渡されたロイの手の中では、瞬く間に首も座ってもいない危うい存在と化してしまう。

「立って抱いているのがおっかねぇなら、そこの椅子に座って抱っこしといてくれ」
「ああ…それでで、おまえはどこへ行くつもりなんだ?」

引かれてきた椅子に、情けないほどにおっかなびっくりの腰を掛けて、ロイは部屋を立ち去るそぶりを見せるヒューズに慌てて問いかけた。

「グレイシアの様子を見に行くんだよ。あいつだけ仲間はずれは可哀相だろ?おまえに会いたがっていたんだぜ?」

産後の肥立ちの良くない妻を気遣う言葉を残して、ヒューズはあっさりと白い部屋を後にした。
そうして置き去りにされた自分の膝の上には、繊細でいて得体の知れない、甘い乳のにおいに覆われた柔らかな命が、ちょこんと乗せられている。

「エリシア、君もエライ父親の元に生まれてきたものだね。後々色んな意味で困らされるかもしれないよ」

捧げられた愛情の重さに、それを断ち切るように巣立っていかなければならない痛みに、きっと泣きたくなるときがくる。
真綿のように心地よく覆う愛情の皮。
用意するのが当たり前の、寝床のように整えられたその皮を、引っ掛けることなく上手に脱いで、もっともっと、大きな幸福を掴めばいい。
この身体のどこかに、未だに脱ぎ損ねた皮を引っ掛けたままの、自分が言えることではないけれど。

「本当に、何もかもが小さいな」

発火布をつけない指で、ロイは握り締められた赤ん坊の小さな拳をつつく。
それに応じるように、赤みの差した滑かな掌がゆっくりと開き、窓辺からこぼれる光ごとロイの指を掴もうと、パタパタとふくよかな腕を揺らめかせる。
グレイシアよりも、自分よりも、他の誰よりも、きっとこの小さな手がヒューズを至福へと押し上げるのだ。

「小さいけれど、これだけは私にも判るよ。エリシア、君は母親似だ…良かったな」

しあわせにおなり。
引き込まれるように掴まえられた人差し指を赤ん坊に預けたまま、ロイはその愛らしい小さな拳に、ひとつキスを落とした。



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