グノシエンヌ(プレビュー)


思えば少年の頃から、彼は不意打ちが得意だった。

エドワードに背中を押されるようにして乗り込んだ、公用車のバックシート。二人並んで座ってもまだスペースに余裕があるそこに、
ロイは気だるげに身を投げ出して、片時も口を閉じようとしないエドワードが持ち出してくる、取り留めの無い話題に相槌を打っていた。

「でね、昨夜のアルの寝言がサイコーなんだって」

死んだ母親を錬成するという、最高位の禁忌を犯した戒めの日を境にして、エルリック兄弟の望む未来の全ては、
二人揃って本来あるべき姿を取り戻すという、単純明快なものになった。

「アルフォンスくんの心配をする気持ちはよく判るが、そろそろ君も一人で休むようにしてはどうだね?」

その悲願の果てに。
不本意ながら、鎧の姿が唯一最大の特徴であったアルフォンス・エルリックは、ぱっくりと口を開いた真理の扉の中から、
魂が抜け出しても尚ひとつの個体として存在し続けていた身体を引きずり出し、待ち望んだ魂と肉体の融合を成功させた。

「点滴も外れて、少しずつでも回復の兆しを見せているんだ。もうそろそろ、互いのプライバシーを大切にしたらどうだ」

十八になったばかりの兄と、見た目はともかく十六歳という多感な年齢の弟。本来ならばとっくに、決別とまでは行かなくとも、
それなりの距離を置くのが自然な年頃だ。
特殊な環境に置かれた兄弟が、絶望的な状況の中で精神のバランスを保っていくために、血の絆という先天的な繋がりを過剰に深めていったことを
糾弾するつもりは無かったが、その代償として他人を排除していったツケが、ここに来て彼らの周囲に黒く渦巻く不安定要素になっているのではないか
と、ロイは少しばかり危惧していた。

「まだ…もうちょっと待ってよ。それよりも母さんは、アルのことが心配じゃねぇの?」

短期間の間に見違えるほどの身体的成長を見せたエドワード。今でも時折見せる、彼の突然のしかめっ面の中には、
遅れてやってきた成長痛に軋む身体を持て余す、戸惑いの表情が含まれていた。

「アルフォンス君については、既に危ない時期は過ぎ去ったと私は思っているよ。あの子は強い。君もその強さを信じてやるんだな」

もうじき彼は、自分の背丈を追い抜くだろう。
数日前に官舎から去って行った彼らの幼馴染が、エドワードの為に新しく用意した機械鎧は、そう遠くない未来にお役御免の憂き目を見るはずだ。

「判っているよ、そんなこと。でも…でも、もう暫くの間、アルが回復していく様子を身近に見ていたいんだ」

――――なるほど…それが、本音か。

背丈だけではない。
肩幅も、胸板も―――全てが眩いばかりに強く張りつめて、彫刻めいた造形の美を醸し出す彼が唯一恐れていることは、今
まで対となって旅してきた弟と引き離されることなのだ。

「だからもう少しだけ、アルと一緒の部屋で俺も寝てもいいだろ?」

朝も、昼も、夜も。いつまでも一緒に。
まだ長く過ごしたとは言えないエドワードの人生の大半において、よすがとなり続けた弟の存在は既に神を遥かに凌ぐ位置を占め、
彼に他を見ることを許さないという一種の狂信めいた思い込みを抱かせている。

「別に私は構わないよ。君たちが決めて、君たちがいいように過ごせばいいさ」

まるで一時預かりの二匹の子猫を、餌もやらずに放り出すような無責任な台詞だった。
けれど、自分には二人が陥いる深みに介入する心積もりなどさらさら無いのだから、それなりの距離を置く返事を与えておくのが
一番適切な処置方法なのだと、ロイは自分自身に言い聞かせた。

目的さえ果たせば、不安定な流浪の身の上を返上して、ふたりして笑顔を交わし合いながら、美しい思い出が散りばめられた長閑な故郷に
帰れるに違いないと、彼らは単純に思っていたのかも知れない。
だが、あちら側から取り戻したアルフォンス・エルリックの肉体は、彼らの夢の実現を簡単に許す訳にはいかないほど、悲惨に衰弱しきっていた。
無理に動かせば、彼は今度こそ取り戻せない場所に魂ごと引きずり込まれる。
それは誰の目から見てもあきらかなことだった。

「うん、そうだね。帰ったらアルにも訊ねてみるよ。俺が四六時中アルの傍にいることで、あいつが真に休むことが出来ないってんなら、
それこそ本末転倒だし」

一ヶ月前の彼であれば、自分の意見にこんなに素直に従うことはなかっただろう。
一本の棘も見当たらない、健気な語り口になんとなく物足りなさを感じながら、ロイは自分の肩に金色の頭を凭れさせて、
静かに目を閉じたエドワードを伺い見た。

「アルがもういいって言ったら、俺は今夜から自分のベッドに戻るから―――」

その視線を肌に感じたのか、エドワードは睫毛の影を頬に投げかけたまま、気乗りのしない妥協案を呟く。

「それで…いいだろう?」

最後の最後に、語尾が揺れた。
それと同時に上がった瞼と睫毛の間に、朝露に似た透明な雫が絡んでいたことを無言で確認してから、ロイはゆっくりと車窓に視線を向けた。
故郷に思いを馳せながら身動きをとることも出来ず、ただ途方に暮れるしかなかった彼らに手を差し延べたのは、
それが年長者として当然のことだと思ったからだ。
自らがスカウトし、軍属になれとエドワードにけしかけた責任だってある。
全てが【人として】当たり前の助力なのだと、急かされるように門戸を開き、彼らを自分の官舎に招きいれた。
ウロボロスの印を刻んだ者たちが駆け抜けたあとの、混乱の最中に今もあるアメストリスに、安心してアルフォンスを託すことが出来る病院など無く、
昔馴染みの医者に無理を言って往診をしてもらう約束を取り付けたのは、ほんの一ヶ月ほど前のことだ。

『あの……ありがとう、大佐』

礼を言われたのは、確か二度目だったと記憶している。
そしてあの時のエドワードは、確かに自分のことを大佐と呼んでいたのだ。

「そうだ、その代わり約束してよ」

自らの肉体を取り戻し、彼と同じ道を歩む理由の無くなった弟に、いつ棄てられるか。
その日が来ることを、ただひたすら恐れながら過ごしていたエドワードの心が、ついに張り裂け壊れたのだと言われれば、
多分そうなのだろうと素直に頷くことも出来る。

『長年の緊張が一気に緩んだことが原因しているのかもしんねぇな。俺は精神科医じゃねぇから、詳しいことはわからんが』

突然、ロイのことを『お母さん』と呼び出したエドワードを、苦りきった表情で見つめていた医者も、そんなことを言っていた。
弟の容態がもう少し安定したなら、次は彼に腕のいい精神科医を紹介して――――
そうすれば、どうしても解くことが出来ない疑問から自分も解放されるかもしれない。

「なんだね、鋼の?」
「ん、大したことじゃねーんだよ。春になったらさ、俺とアルと母さんと…」

三人で、汽車に乗って、どこかへ。

なぜ自分がそこに含まれるのか、ロイには皆目見当がつかなかった。
どう足掻いても断ち切ることの出来ない、弟への切ない想いに根付いて咲いた美しい花に埋め尽くされた森の中。
そこに迷い込んだ自分は、異端とも呼べる全くの部外者でしかないというのに。
それともエドワードにとって自分は既に、彼らの母親に象徴される、永遠に失われた存在と同等に扱われる場所に、追い落とされてしまったのだろうか。

――――これも一種の等価交換と言えるのかも知れないな。

立場上、彼らを保護下に置いている自分を差し出して、代わりに母親を取り戻すというほの暗い欲望。
そこからエドワードを引き上げてやることが、果たして彼にとって幸せなのかどうか。
精巧に出来た迷路の中心に放り込まれ、見えない出口を捜し求めるように、ロイは容易には答えを出すことのできない謎に思いを馳せた。



*何を血迷ったのか、エドさま、増田を母親と思い込み中……


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