エッグノック(ハボロイ)


「大佐なら自宅療養中よ。酷い風邪をひかれて」

ホークアイ中尉はその形の良い唇からとどめを刺すように病原菌を撒き散らされるのはごめんだから≠ニ、上司の不在の理由を告げた。
サボリ常習犯であるロイ・マスタング大佐が、その地位に相応しくあれと与えられた重厚なデスクの前から姿をくらますことは珍しいことではない。

「じゃ、今日はどこかで油売ってるワケじゃないんすね」

煙草嫌いの中尉の手前、火を点していない煙草を口の端に咥えたまま、ハボックは不明瞭な声で独り言のような返事をかえす。
静かな街の一角を瓦礫に変えて消えてしまった物騒な男の探索を、ありがたくも無期限で任されたしまった彼が、
この東方司令部に姿を見せることは最近では珍しい。
週に一度義務づけられた報告書の提出を午前中に済ませてしまえば、その後は過酷な肉体労働にあけくれるハボックに、
せめてもの労いとばかりに半日の非番が与えられている。
マスタング大佐に直接手渡すことの出来なかった代わり映えのしない報告書をホークアイ中尉に託し、昼食の段取りなどを頭の中で考えながら、
自分のデスクに堪った書類を見ないふりで帰宅の用意をするハボックの背中に、のんびりとした声が掛けられる。

「あれー?ハボック少尉、お久しぶりです」
「久しぶりに姿を見るせいかもしれませんが、いつもより嵩張ってる気がしますね」

振り返ると、見事な凹凸ぶりを見せるフュリーとファルマンが和やかな笑顔を湛えて立っていた。

「おまえから嵩張るなんて言われるのは心外だ」

彼らの表情からは悪意の欠片も見出すことは出来ないのに、分厚いファイルを抱えながら忙しなくデスクと資料棚を往復するふたりの姿を見るにつけ、
理不尽な想いがムクムクと湧き上がる。
塵と汗に塗れながら終わりの見えない労働に全ての精を奪われて、雑然としていながらも空調の効いた暖かな場所から締め出しを喰らっている
自分の立場がとてつもなく恨めしい。
それでなくとも自分をそんな状況に追い込んだ冷酷な上司は、隙だらけにも関わらず魅力的なその身体を病原菌に乗っ取られ、
家に引き篭もっている現状で、ぼやきのひとつも直接に訴えることが出来ないというのに。

何も自分がここにやって来ることになってる日に、わざわざ風邪をひいて欠勤することもなかろうに。

「やっぱり大佐、意地が悪い」

ホークアイ中尉の姿が部屋から消えたのを見計らって、ハボックは咥えた煙草の先に火をつけた。



仕事の合間の居眠りは最高に心地良いのに、ひとりで潜り込んだ清潔なベッドの中がこんなに居心地が悪いというのは詐欺に等しい。
ケホケホと咳込む息苦しさがその気持ちに輪をかけて、ロイは羽布団の下で身体を猫のように丸めながら腐りきっていた。
中尉から指示された通りにストーブの上には湯気を吹くケトルを置いて、ミルクにパンを浸したものを少量胃に落し込んだ後に
苦い薬を服用したというのに、風邪に侵された身体のだるさは増していくばかりだ。
こんな時は眠るに限ると固く目を瞑っても、昨夜からウトウトと夢と現を行ったり来たりしている状態で、
待ち望む黒い帳はなかなか下りて来てくれそうにない。
弱った身体に引き摺られるようにロイの思考は嫌な方へと流されていく。
このまま全快したところで自分を待っているものは、ピサの斜塔のような崩れ落ちる寸前の書類の山と背中に突き刺さる部下の視線だ。
この世にひとり取り残されたような孤独な部屋で、耳障りな蒸気の音に癇癪を起こす寸前になりながら、眠るに眠られずにいる自分は
ちょっぴり不幸なのかも知れないと涙ぐんでしまったことは誰にも言えないけれど。

「喉…乾いた」

充分すぎるほどの湿度を保った部屋に居ても、咳に荒らされた喉はすぐに水分を欲しがる。
それに何よりも熱いのだ。
ヘッドボードの上に置かれた水差しに手を伸ばそうとして、スッポリと被っていた布団から漆黒の髪をのぞかせたロイの耳に、
カチャリと寝室のドアノブが回される音が届いた。
ディナーや観劇・音楽会にエスコートする女性には事欠かないが、
合鍵を渡すような本命が居るわけでもない自分の官舎に、自由に出入り出来る者は限られている。

「…熱が上がりそうだ…」

潤んで重たく感じる目を閉じて、ロイは白いシーツの上に突っ伏した。


「大佐ぁ、風邪ひいたそうっすね。熱高いんですか?」

もぞもぞと動くベッドの上の大きな繭に苦笑しながらハボックは、手にした紙袋をベッドの傍のナイトテーブルの上に乗せて、
一人で寝るには大きすぎるベッドの端に腰を下ろした。

「メシちゃんと食ってますか?栄養つけないと風邪治らないっすよ」

それにしてもこの部屋は暑すぎる。
ほぼ部屋の中央に置かれたストーブの上で、煮えたぎる湯を沸かし続けているケトルの響きも殺人的なけたたましさだ。
官舎の中に入ってすぐに脱いだロングコートを、既に応接間のソファーの上に放り投げてきた自分でさえも、
この部屋に篭もるむせ返るような空気に逆上せそうになる。
自業自得とは言え、こんな狂った温度調節を施された部屋に取り残された上司が可哀相になってしまう自分は、一体なんだとういのだろう。
信じられない心のメカニズムに、健康なはずの自分の体温まで跳ね上がった気がして、ハボックは短い軍服の上着をも脱ぎ捨てた。

「あちーっすよ。こんな亜熱帯みたいな部屋ん中で布団に潜り込んでちゃ、熱いつまでたってもひきませんぜ?」

そう言いながらハボックは、上司の身体をスッポリと包み込んでいる軽い布団を躊躇することなく剥ぎ取り、
背中を向けて丸くなっているロイの顔を覗き込んだ。
案の定。
ベージュ色のパジャマから覗く肌は熟れた桃のような色に染まり、火照った肌からは今にも湯気が立ち昇りそうだ。

「しっかし…なんてーか、美味しそうな色になって…」

隠しきれなかった笑い声を喉の奥で小さくたてながらからかうハボックを無視して瞼を下ろしたまま眠ったふりを続けようとしたロイだったが、
気道をせり上がってくるものを我慢できるわけもなく、派手に咳込みながらベッドの上でのた打ち回ることになった。

「一緒にメシでもどうかと思ったんですけど無理みたいっすね」
「当たり前だろう。これで食欲が涌く方が不思議だ…」
「そこの角の店で美味そうなミネストローネがあったから買ってきたんですけど、それも食えそうにないですか?」
「…いらん」

漸くおさまった咳に息を上がらせながら、不機嫌さをありありと滲ませた表情で喋るロイの声は見事に掠れ、
乾ききった粘膜の痛みを的確に伝えてくる。

「んじゃ、俺は遠慮無くいただきますよ。めちゃくちゃ腹減ってんです」
「折角の非番だというのにおまえは他に行く所も無いのか…哀れな奴め」

持参した紙袋の中から、ハボックは薄紙に包まれたライ麦パンのサンドウィッチや蓋付きのカップ、熱々のフィッシュ&チップスなどを取り出して、
小さなテーブルの上をくまなく埋め尽くしてしまう。

「おまえがこれを全部食うのか?」
「大佐が食わないなら、俺が全部食うことになるんでしょうね」

そう言うそばからサンドウィッチにかぶりついた部下にうんざりした眼差しを投げかけた後に、くるりと壁側に背を向けたロイは
またもや重い咳を吐き出した。

「食えないのは仕方ないけど、何か水分だけでも摂った方がいいんじゃないすか?」
「水でいい…」

―――大体コイツが急に部屋に入ってきたから水差しを取り損ねたんじゃないか。
しかし今はそれに文句を言う気力もなく、ようようの態で再び目的のものにロイは手を伸ばそうとした。

「水じゃ栄養は摂れませんよ。俺がいいもん作ってあげましょう」

早くも一つ目のサンドウィッチを平らげたハボックは再び紙袋の底を漁り、数個の卵と少し黄色がかったミルクの壜と香辛料らしきものを取り上げた。
―――一体、何軒の店をハシゴしてからここにたどり着いたのだろう。
苦しい咳の合間に、呆れた表情を作ったロイに気づいた風でもなく、ハボックはそれらを大きな手に持ってベッドから立上がった。

「食うモンはないけど、ここには酒だけは沢山ありましたよね?」

時折ロイを尋ねてやって来る、滅法アルコールに強い旧友の為に揃えた酒を置いた飾り棚は圧巻というもので、
小さな居酒屋などでは到底飲めないような種類のものなども無造作に並べられていたりする。

「ブランデーとラム酒を借りますよ…っと、その前に」

飾り棚のある応接間に向かおうとしたハボックだったが、急に大きな身体を反転させて、ベッドから一番離れた窓の方へ大股に歩いて行った。

「換気もしときましょうや。空気悪すぎですよココ」


チェーンスモーカーのハボックに空気が悪い≠ニ評された部屋に再びひとりで取り残されて、
ロイは自分の苛立ちが風邪の為だけではないのだとボンヤリと思い至る。

「寒い…」

開け放たれた窓から歓喜の声をあげながら部屋に忍び込んでくる寒風に、ロイは身を竦ませる。
肌に痛みを感じるほどの冷たい風。さっきまでベッドに腰掛けていた、腹が立つほど嵩高いあの男が傍に居れば、
突き刺さる冷気を自分から隔ててくれるのではないかなどと思ってしまう自分が疎ましい。

「やはり今日はロクな事が無い」

ハボックが酒を取りに行ったほんの短い時間に、寂しさを思い知らされるなんて。



「お待たせしました、大佐」

酒の壜を抱えて足音も高く部屋に戻ってきたハボックは、自分の昼食が所狭しと並べられたテーブルの上になんとかスペースを作り、
ブランデーとダークラムの小壜を置いた。

「何をするつもりだ?」
「エッグノックを作ろうと思いまして」
「毒でもい…ゴホッ…!」
「ああ、すぐに咳込んじゃうんですから今日くらいは黙って俺に看病されて下さい」

酒のついでにと購入したものの、すぐに飾りとなってしまったシェイカーを持ち出していたハボックは、
ニヤリと笑いながらその中に器用に卵黄だけを落とし込んでいく。

「まずはコレをかき混ぜておいて…と」

銀色のマドラーでくるくると卵黄を混ぜる姿が、司令室で働く姿より余程真剣みを帯びているように見えるのはどうやら気のせいばかりではないようだ。
ハボックの大きな手で固定されているシェイカーにマドラーが当たる音までもが、ロイの耳には陽気な音楽のように聞こえてしまう。
――――何がそんなに楽しいのだ?

「お次はラムとブランデー、メープルシロップにクリームを入れてシェイク」

上司の複雑な心境などお構い無しに、ハボックはやはり楽しげにシェイカーの中に次々と材料を注ぎ入れ、
最後に蓋を閉めたシェイカーを両手で包み込んで上下にシェイクする。

「なかなか様になってるじゃないか」
「そーですか?んじゃ大佐の専属でバーテンとして雇ってくださいよ」
「断る」
「考える間も無しで却下ですか?寝込んでるっていうからもっと可愛く頼ってくれるって思ってたんですけどねぇ」

その考えはきっと今シェイカーの中で踊っている酒よりも何倍も甘いものだ。
ロイ・マスタングとの付き合いがもう結構長いものになりつつあるハボックが零す言葉は、予想というよりも希望に近い。



「そろそろいいかな」

小気味よく動かしていたシェイカーの蓋を開け、そこに牛乳を静かに加えて適度にステアすればほぼ完成の優しい酒は風邪の特効薬。
厚手のグラスにシェイカーの中身を移した後にナツメグを降り入れる手つきも細心にして、ハボックは処方箋通りに作り上げたエッグノックを
ロイに手渡した。

「どうぞ。俺の自信作です」

鷹揚に受け取った酒に対して礼のひとつも言わなかったロイだったが、グラスの中を一瞬覗きこんだだけですぐに口を付けてくれたことが
何よりも嬉しい自分の病はかなりの末期症状に違いない。

「…甘いな」

エッグノックを一口含んだ後の感想を述べたロイの、唇の端に付いたクリーム色を指先で拭いながらハボックはそう思う。

「それ呑んで早く良くなって下さいね。御褒美は風邪が治ってからでいいですから」
「…それも甘い」

憎まれ口を叩きながらもグラスの中身を見る見るうちに飲み干していく人の傍で過ごす、今日は有意義な半日休暇。



(2004.1.1 初出)


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