庭の千草


僕は十四歳。
イーストシティのど真ん中、ラッセルストリートの交差点の近くで新聞スタンドの
販売をやっている。
学校はロースクールだけしか行ってないけれど、でもそんな子供は別段この国では
珍しくはない。
内乱で死んだ父さんの弔慰金は既に底をつき、酒場で働く母さんの稼ぎだけじゃ
弟や妹達を養ってはいけない。
だから僕は働く。
新聞は一部百三十センズ。煙草は一箱二百七十センズ。ふたつあわせて四百センズ。
五百センズ札で代金を払ってくれる人には百センズのお釣り。
千センズ札の場合はお釣りは六百センズ。
学校なんか行かなくても、僕は結構元気に一日を楽しみながら生きている。

そして今日は六月十二日、月曜日の早朝。
もうすぐ僕の至福の時間がやってくる。


「おはよー、いつもの2カートン…」
「おはようございます。ハイ、五千四百センズです」
遠くからでもよく判る、長身の彼の明るい金の頭を見つけるとすぐに、
僕は水色のパッケージの煙草の包みを足元から取り出す。
「おいおい、用意するの早すぎないか?」
「お得意様ですからねー、上客にはサービスしなきゃ…ハイ」
彼の手に煙草を預けたあとに、僕はポケットの中からガムを一枚取り出し、
煙草の包みの上に置く。
「お、サンキュ。本当、サービスいいな」
そう言って笑う彼は太陽そのもの。
煙草を脇に挟んで、僕があげた一枚のガムを薄い唇に銜えながら、
彼は蒼い軍服のポケットからクシャクシャになった一万センズ札を僕の手に渡してくれた。
「お釣りは…えーっと……」
お釣りは四千六百センズ。
本当はちゃんと判っているのに、僕は指を折りながらお釣りを計算する振りをした。

「四千六百センズだよ」
「えっ、ああ……」
きっと彼は親切心で教えてくれたのだろうけれど、内心僕はがっかりしていた。
だって…少しでも長く、彼と話をしていたかった。
いや、それよりもただ彼の傍に居たかったのだ。
それなのに。
「はい、お釣りです。間違ってないか確かめてくださいね」
「おー、大丈夫。いつも間違ってなんかねーから、今日もきっと大丈夫さ」
そう言いながら、大きな手の中のお金の額を確かめもせずに、
彼はそのままポケットにお釣りを突っ込む。
「ハボックさん、今日も街の見回りに出るの?」
「ああ、夕方の視察の時にここを通るよ」
「ふぅん…そうなんだ」
緩みそうになる頬を腿を抓って僕は引き締める。
月曜日は好きだ。だって、彼の姿を朝夕二回も見れるのだから。
「あの…その時、手を振ってもいい…ですか?」
「んあ?別にいいよ」
もごもごとガムを噛みながら、彼はやっぱり笑って僕のささやかな願いを了承してくれた。
「じゃ、もう行くわ。偉い人を迎えに行かなきゃならないからな」
「ありがとうございました……行ってらっしゃい!」
ああ、なんか少しだけ息苦しい。

軽く手を上げてからこちらに背を向け走り出した彼を、僕は長いこと見つめ続けた。

目が痛くなるまで、胸が痛くなくなるまで―――。


僕のスタンドに彼が初めてやって来たのは、一年ほど前のこと。
さっき彼が言っていた『偉い人』の命令で、新聞を買いにここに足を運んだのだ。

『お兄さん、軍人さん?』
アメストリス軍の軍服を着ているんだから、そんなこと訊ねるまでもないというのに、
僕は気がつけば間抜けなことにそう彼に問いかけていた。
『そうだよ?』
『あ…僕、その…僕の死んだ父さんも軍人だったから、つい…』
不思議そうに、けれどニコニコと笑いながら、彼は僕の馬鹿げた質問に答えてくれた。
この国には軍人が沢山居る。
だから僕のスタンドを利用してくれる軍人さんは今までだって数え切れないほど居たというのに、
こんなことを訊ねたのは彼が初めて。
急に恥ずかしくなって、僕はしどろもどろになりながら言い訳をしたのだが。
『そっかぁ。親父さんが軍人だったんだ』
そう言いながら、彼は大きくて温かい手で僕の前髪をくしゃりと撫でてくれた。
『これも何かの縁だ。またちょくちょく利用させてもらうよ』
そしてもう片方の手で、新聞代を僕の手の中に落としてくれた。
ここに来るまでずっと握り締めていたのだろうか、
十三枚の硬貨は頭を撫でてくれた手の温度と同じ暖かさで、
僕はその温度を確かめるように手の中の硬貨をぎゅっと握り締めた。
『ありがとうございました!』
軽く手を振って再び僕に笑いかけてくれた彼に、大きな声でお礼を言ってから、
僕は手の中に残された十三枚の硬貨の中の一枚をレジ代わりの箱にしまうことなく、
ズボンのポケットに忍ばせた。

そしてその日から彼は僕の店のお得意さまになった。


その一枚のコインは、僕のお守りとなって今に至っている。
何かあるごとに僕は、ズボンのポケットに手を入れては
そこに入れたコインをぎゅーっと握り締めるのだ。
例えば母さんに怒られた時や、イーストシティミドルスクールの制服を着た、
僕と同い年くらいの学生達の群れがスタンドの前を通り過ぎるとき。
不意に訪れる感情のねじれを解すのに、彼から貰った一枚のコインは
いつも一役買ってくれるのだ。

これがどういう種類の感情か、僕はなんとなく判っていた。
でも僕は…決して男の人が好きな訳じゃない。
きっと彼だから僕は好きになったのだと思う。
そして彼もたったひとりの人を見つめ続けている。
まるで僕と同じ…一生懸命な目でその人のことだけを見つめているのだ。
僕がそのことに気付くのに、それほど時間はかからなかった。
今日もきっと彼は、彼が一番大切な人と一緒にこのスタンドの前を通り過ぎていくのだ。





(あ、来た!)
ものものしい憲兵の一段を率いて、しゃんと伸びた背筋が美しい黒い髪の軍人が歩いてくる。
その一歩後ろで、その黒髪の軍人を守るように控えているのが彼だ。
この時期になると、時間的に夕方と言っても差し支えない時間になっても日は長く、
ようやく天空から滑り落ちる準備をしだした太陽の光が、
一団を率いる軍人のサラサラの黒髪に弾かれていた。
それと同じ光を受けて、ハボックさんの金髪はまるでタンポポの柔らかな花びらのように、
キラキラと輝いている。

天使の輪を載せた黒と、はちみつのような金色。
その正反対の色合いは、僕以外の人たちの目も惹くようで、
通りを行きかう人々の多くが何かまぶしいものを見るような目つきで、
視察隊の一団を見つめていた。
特に女の人たちの多くは、ハボックさんの前に立つ黒髪の軍人さんをうっとりと眺めていたけれど、
ハボックさんのことだけを見つめている人たちだって結構居るってことを、僕はよーく知っていた。
現に隣の花屋のジャネットなんて、ハボックさんがこのスタンドに立ち寄るときに限って、
いそいそと店先の花の手入れを始めたり、おじさんに買って来いと言われたと、
ハボックさんと同じ銘柄の煙草を買いにきたりと、とても判りやすい行動を取る。
今もホラ、出回り始めたばかりのひまわりの花束をかかえながら、
彼女はぼーっとのぼせ上がった赤い顔をして店の前に立っている。
でも彼女は、こんな近くに自分の恋敵が居ることを知っているのだろうか。
そして僕やジャネットがどう足掻いたところで、ハボックさんの心の中には
とっくに他が入り込む隙間が無いほど、大きな存在が居るということを―――知っているだろうか。

視察隊の一行を引率する憲兵隊長が僕の前を通り過ぎていく。
その後に続くのは、多くの女の人の視線を集めている黒髪の『偉い人』。
白い肌によく映える真っ黒な瞳と桃色の唇が印象的なその人の、
とても綺麗な横顔を見つめながら、僕はポケットの中にそっと手を入れた。
キュッとコインを握り締めるのと同時に、ハボックさんが僕の目の前を横切って行く。
一瞬だけこちらをチラリと見て笑う彼に、僕は空いた左手を振り返す。
ほんの一時のしあわせ。
そしてそのしあわせのすぐ後にやってくる、やるせない気持ち。
僕の前を通り過ぎていったハボックさんは、何か気になることがあったのか、
彼のすぐ目の前を歩く人の背中に覆いかぶさるようにして、何事かを話しかけていた。

月曜日は大好きだ。
けれどその気持ちと同じくらい、心の中がさびしくなる日でもある。

僕の大切な人は、彼の大切な人を護るために、その人の後ろに付き添いながら街中を歩く。
時にはもの言いたげな目で、彼のすぐ前を歩くその人の背中を見つめ、
そして時には真剣な顔つきでその人を傷つける人物が物陰に潜んでいないか、
抜け目無く周囲を伺っている。

僕は彼の笑った顔が大好きだ。
けれど僕には決して見せることのない、色々な彼の表情を遠くから見守るうちに、
それだけじゃ足りないと思う自分がいることに気づいた。
そして僕は彼の後姿を見送るたびに、
気がつけばいつもいつも、いつも―――ポケットの中のコインを握り締めていた。

「あーあ、行っちゃった…」
一陣の風のように、目立ちすぎる視察隊は通りを過ぎ去り、次の交差点を右折していった。
あとに残されたのは、漸く歩き出したいくつかの女の人のグループと、
笑いさざめく華やかな声の洪水。
それらの波が妙にゆっくりと僕の目の前を横切っていく。
 
ああ、ため息もでやしない。

ここから見えない彼は今、一体全体どんな表情をしているのだろう。
そんなどうしようもない事を考えながら、僕は何気なく花屋の方に視線を向けた。
ジャネットはとっくに店の中に姿を消していたけれど、彼女が抱えていたひまわりの花束は、
店の前に置かれた深いブリキのバケツの中に入れられていた。
伸びやかに咲いたその花は、まだ空に大きく居座っている太陽に向かって、
思い切り伸びをしているようだ。

黄色い花びら、光り輝く金の髪――。

そう彼も、彼だけの太陽に向かって笑いかける、語りかける、見つめ続ける。
時折ここから見かける、黒い髪の軍人さんがハボックさんに投げかける笑顔が、
彼の唯一の光。

ぼんやりと眺めていた大輪の花に、
大の男である彼の姿を重ねていた自分が急におかしくなって、僕はくすりと笑う。
あの人が光に向かって伸びるひまわりの花ならば、一体僕自身を何に例えればいいのか。
そんなことを考えながらふと足元に目線を遣ると、
茶色い靴のすぐ傍に、名前も知らない小さな白い花がちんまりと咲いていることに気付く。

灰色の石畳の間を掻き分けて、自分の思いをなんとか咲かせようと地上に芽吹いたこの強い花は、
誰にも気付かれずにひっそりと、地面に沿うように低い場所に佇んでいた。
 
きっとこの花は、来年も再来年もその次の年も、繰り返し――

「よく見りゃ結構綺麗じゃないか、おまえも」

――同じ白い花をここに咲かせるのだろう。


そして僕はそんな花のような人になりたい。


(2006.6 ハボロイ・ヘヴン無料配布本より)


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