空の青(136 高いところ)


「いい天気だ…」
セントラル士官学校の校舎の屋上は、建前上許可無く生徒達が立ち入ることは禁じられていた。
けれどどこにでも売っているような南京錠ひとつで閉ざされた場所は、入ろうと思えばいつでも踏み入ることが出来るというなんとも曖昧な状態で、
いたずらに生徒達の好奇心を刺激していた。

雲ひとつ無い青空をこのセントラルで拝めるのは、年に数えるほどだと言っても過言ではない。
乾いた風もひどく心地よい。そんな陽気につられてロイ・マスタングは、貴重な昼休みにこっそりと一人抜け駆けして、
太陽の光を遮るものがひとつも無い屋上に忍び込んだ。
ひとっこ一人居ない高みでひっそりと伸びをする。つむじを撫でて通り過ぎていく風に目を細めたあとに、ロイは屋上を囲うフェンスの破れ目を流し見た。
細身の人間であれば、少し破れ目を広げればそこから飛ぶことも可能な危ない場所に、引き寄せられるようにロイは近づいていく。
噂によれば、ここに忍び込んだ生徒達が些細な出来事で諍いを起こし、もみ合ううちに誤ってひとりの生徒が落下した跡だという。
そしてもう一説によると、士官学校の高度なカリキュラムについていくことが出来ず、精神のバランスを崩してしまった生徒が飛び降りた場所だとも
囁かれていた。
だが怠慢にも学校側が放置し続けているこの破れ目が、そのふたつの噂がただの噂に過ぎないということを皮肉にも伝えていた。
「馬鹿馬鹿しいな…」
どこの学校にでもあるような噂話は、空に近いこの場所に少しだけ禍々しい影を落としていたが、端からその噂を信じていなかったロイにとってこの屋上
はあくまでも、集団生活の中にあってひとりで過ごす時間を持てる希少な場所のひとつでしかなかった。

水色に塗られた網目の向こうには、低い連山の緑が色濃く浮かんでいる。
絵本の中の海のような青と深い緑のコントラストの妙はそう悪いものではなかったが、自然が見せる優しい色合いはロイの興味を長々と留めておくには
少し役不足だった。
次にロイはフェンスに両手をかけ、大きな破れ目に黒髪が艶やかに光る小さな頭を迷うことなく突っ込んで、下界に広がる校庭を見下ろした。
五階建ての校舎の屋上から身を乗り出せば、普通であれば多少なりとも足が竦んでも不思議ではないと思うのに、ロイの身体はあくまで自然体の伸び
やかさを手放すことをしない。
まだ骨格がちゃんと出来上がっていない頼りない両肩までをも中空に乗り出させて、ロイは晴れわたる天空と正反対の位置にある暗い色の土に固めら
れたグラウンドを、親の敵でもあるかのように強いまなざしで睨み付けた。

――――ここから落ちたらどうなる?

クッションになる芝生も花壇もなく、落下する身体を受け止めてくれる木立も無いグラウンドに向かって身を躍らせればどうなるか、そんなことは幼い子供
でも予想できる。
万が一死は免れたとしても、軍人として、そして国家錬金術師としての未来を棒に振りかねない後遺症に一生苦しむことになるかも知れない。
だが、どうしてだか。
一人分の体重を支えるにはいささか頼りない、破れた金網だけを命綱にして不安定に高所から身を乗り出しているというのに、ロイの中に明確な恐怖が
巣食うことはなかった。

「なーにしてやがるんだ、おい?」
風が鳴る。
耳元で小さな唸りをあげる風の音を縫って、ロイの背後からなんとものんびりした男の声が聞こえてきた。
「見て判らないか?下界を見下ろしている」
声の主が誰かなんて確かめるまでもなく判っているから、わざわざ振り返ったりはしない。
尊大に言い放った後も、ロイは大きく上体を屋上からはみ出させて風の音を聞き続けた。
「落ちるぜ?」
「そんなヘマはしないさ」
「こわくねぇの?」
「別に」
短いやり取りの中に嘘は無かった。焔を司る指先が握る細い金網が、命を預けるにしてはどれほど心許なく危ういものかそれを理解できない訳ではな
かったが、それでも死は自分から最も遠い場所にあるような気がしてならないのだ。
「怖くないさ」
依然として風は鳴り止まない。これに乗ってここから身を投げれば、そのまま飛んで行けそうだとロイはうっすらと唇に笑みを浮かべた。

「ふぅん…おまえってやっぱ、鈍感?」
怒るでもなく嘆くでもなく、どこか間延びした口調で、背後の男はロイの豪胆さを揶揄した。
「身体と心が正反対なのな、おまえって」
余計な一言を付け足してから、男はくすくすと笑い出す。
「余計なお世話だ」
お決まりのように言い返し、小さく鼻を鳴らしたロイだったが、唇に乗せた笑みはまだ消えてはいなかった。
自分の行動と発言を揶揄され笑われても腹が立たないのは、ロイ自身が彼の意見を最もだと思っているからだ。
死を恐ろしいものだと認識しない自分の心は勇敢でもなんでも無く、ただ単に傲慢で鈍感なだけ。
だが頭でその馬鹿さ加減を理解していても、今自分がとっているとんでもない体勢より、人の気配の途絶えた資料室の厚いカーテンの影で、背後に控え
ている男と耽る際どい遊びの方がスリリングに思えるのだからどうしようもない。
「マース」
強く握った金網がミシリとイヤな音を立てる。
「俺がここから落ちて死んだらおまえは泣くか?」
「あ?」
「俺が居なくなったら、おまえは泣くかと訊いている」
「んー、そうだなぁ。泣きはしねぇと思うけど―――」

―――きっとここでの生活がとんでもなく退屈なものになるんじゃねーかな。

そう答えた傍から、男の手がロイのシャツの裾を力強く掴む。
「合格」
差し出された答えが気に入ったのか、ロイは青い空に向けて声を上げて笑いながら指先の力を抜いた。


(2006.05.29)


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